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八甲田山の雪中行軍遭難事件がヤバ過ぎる!日露戦争に向けた準備で軍隊が遭難凍死

八甲田雪中行軍遭難事件は、1902年(明治35年)1月に日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊が八甲田山で冬季に雪中行軍の訓練中に遭難した事件。訓練への参加者210名中199名が死亡(うち6名は救出後死亡)するという日本の冬季軍訓練における最も多くの死傷者が発生した。

更新日: 2019年06月16日

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misukiruさん

八甲田雪中行軍遭難事件(1902年)

1902年の日本における状況は、ロシアとの緊張が続いており、日英同盟が結ばれた年でもあります。ロシアとの戦争に備えて、雪に対する訓練として行われたのが「雪中行軍」でした。青森県の八甲田山を横断するという訓練でしたが、部隊が全滅に近い損害を受けた歴史的な遭難事件になりました。

青森県の八甲田山に雪中行軍を試みた軍部の部隊の多くが凍死した事件です。

第8師団第5連隊第2大隊の雪中行軍の大惨事は実に我国未曾有の椿事なり。今や遭難者の屍体も続々発見され、中には多少生存者もある由なるは、まず不幸中の幸というべし。とにかく前代未聞の椿事なれば繁を厭わず、東京その他の新聞により、昨日まで得たる各方面の報道を蒐集して左に掲ぐべし。

八甲田山の雪中行軍遭難事件は、小説で書かれた後に映画化されて、多くの人が知る事になりました。

青森県の中心部に位置してり、青森県を代表する山として知られています。

ロシアとの戦争を考えていた第八師団司令部(弘前)は、ロシア艦隊に津軽海峡・陸奥湾を封鎖された場合、その艦砲射撃での鉄道爆破(弘前~青森間、青森~八戸間)を予想し、青森から八戸に行くには三本木(現・十和田市)を経由して行かねばならない。

当時はロシアとの戦いが現実のものと捉えられ、ロシア軍によって陸奥湾が閉鎖、あるいは青森一帯が上陸占領された場合を想定した訓練であった。ロシア軍が太平洋から上陸した場合、八戸および主要路は敵に制圧され、第五聯隊が移動するとなればこのコースとなるはずだった。

青森から青森5連隊が行軍して、弘前からは、弘前31連隊が雪中行軍を行いました。

参加したのは青森歩兵第5連隊(以下青森隊)と弘前歩兵第31連隊(以下弘前隊)で、それぞれルートも目的も日程も異なり、互いの訓練予定すら知りませんでした。

小説と映画では両部隊は遭遇する作戦行動となっていたり、対抗心を燃やしたりしているが、実際はまったく無関係に別々に行動し、お互いの動向は知らなかった。

青森歩兵第5連隊

本行軍の編成は将校9名・軍医1名・見習士官2名・特務曹長4名・下士卒194名、臨時移動大隊本部16名を併せて210名の中隊編成であった。その随行である大隊本部には大隊長・山口鋠少佐がいる。山口少佐は五聯隊の教育主座を務めていた。

雪中行軍で生き残った11人で記念写真を撮影しています。

1903年に創設された墓地で、遭難者の墓標が整然と並んでいます。

青森第5連隊は1月23日早朝出発、、、翌2日目にして死者行方不明者40名、3日目更に死者30名、4日後の1月27日には生存者が30名余り

*4日目に30名あまりしか残っていなかったという報告です。

指摘される準備不足

出発前の写真ではありますが、ソリが相当に大きい事が目に付きます。

第5連隊では、出発の前日に壮行会が開かれており、深夜まで宴会が行われていた事も、「過酷な行軍」との認識が希薄だった事をうかがわせる。長谷川特務曹長は「田代といっても僅かに5里ばかりで、湯に入りに行くつもりで、たった手ぬぐい1本を持っただけだった」と語っている。

下士卒が「毛糸の外套2着重ね着」「フェルト生地の普通軍帽」「小倉生地の普通軍服」「軍手1足」「短脚型軍靴」といった服装で当時としても冬山登山の防寒対策としては貧弱なものであった。

生存者の小原伍長の証言によれば、誰も予備の手袋、靴下を用意しておらず、装備が濡れてしまったら換えはなく、そこから凍傷が始まり、体温と体力を奪われ凍死していったという。小原伍長自身も「もしあの時、予備の軍手、軍足の一組でも余計にあれば自分は足や指を失わなかっただろうし、半分の兵士が助かっただろう」と後年、供述している。

田茂木野において地元村民から行軍の中止と、もし行くのなら案内をという助言を無視して地図とコンパスのみでの
八甲田山雪中行軍を強行

2メートルほどの雪濠を掘って、ビバーグをしますが、兵士たちに凍傷が広がると考えた上官は、ここから出て行軍する事を決定してしまいます。

山口少佐がすでに訓練の目的は達したとして帰営を決断する。兵士たちに凍傷者が続出することを危惧してのことであったがこの決断はあまりにも遅すぎた。午前2時30分、連隊は雪壕を出て帰路につく。この時点で気温は零下24度に達していた。

腰の高さの雪を漕いで歩いており、深い所では胸や頭の高さまで達する雪になっていたという事です。

青森隊では訓練直前に本来の階級や職務と食い違った人間が入っていたため、兵士が「誰の言うことを聞いたらいいのかわからなくなった」という軍隊としてはあるまじきことが起きていたそうです。

斥候に出ていた佐々木一等卒が帰還し帰路を発見するが、そのころには部隊は統制を失い大橋中尉や永井軍医が落伍して凍死していた。午前0時、倉石大尉と神成大尉が合流して馬立場北方の森の中で夜営する。死んだ兵士の背嚢を燃やすなどして暖をとるも体力のない兵士たちはさらにバタバタと凍死していった。

4日目を迎えた1月26日、神成大尉と倉石大尉はいかなる理由か隊を二手に分けることを決断する。神成大尉が数名と田茂木野を目指し、倉石大尉が二十名近くを率いて青森を目指した。

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