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日露戦争の戦い一覧まとめ。日本海海戦のバルチック艦隊から旅順の戦いまで

1904年に起こった日露戦争は、機関銃の威力が試された戦いとなり、塹壕戦の有効性が確認されるなど、第一次世界大戦の前哨戦とも言える戦いになりました。日本と同盟・中立の各国の武官が見学に来たことで、第一次世界大戦の武器開発などに繋がったと言われる戦いです。

更新日: 2016年09月19日

misukiruさん

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この当時、有色人種の完全な主権国家は、全世界で日本、トルコ、タイ、エチオピアの4国だけ

日露戦争が開始された1904年

日本国内では、まともな国際教育、地理教育を受けた人が少なかったので、ロシアがどこにあるのか、どのような国か知る人はほとんどいませんでした。

朝鮮半島全土を支配する企図のあった日本は、ロシア動員前に開戦しようと,1904年2月4日、明治天皇臨席の御前会議で開戦を決定,6日,外相小村寿太郎はロシア駐日公使ローゼンに国交断絶を宣告した。

日本とロシアの国力には圧倒的な差があった。戦争直前の1903年、対ロシア戦の作戦を練っていた田村参謀次長は過労死している。

当時の世界は、いわゆる「帝国主義の時代」でした。軍隊や経済の力で他国や異文明を破壊し、植民地支配することが、ごく当たり前のように行われていたのです。

日露戦争は、満州の周辺を巡って戦争が繰り広げられました。

日露戦争(1904年2月8日 - 1905年9月5日)は、大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部を主戦場として発生した戦争である。

日露戦争は、朝鮮でも親日派の勢力を拡大させたし、最終的にこの戦争が日帝植民地支配の最大の要因となり、日本が本格的に帝国主義路線を歩むきっかけとなる

日本やタイやエチオピアが独立を保ちえたのは、これらの国が、たまたま白人勢力間の均衡の中間点にあったという幸運に恵まれたからです。

朝鮮半島を戦場に北上

日本兵は朝鮮半島を進軍して、兵員・物資の補給などを行ったので、ロシア側よりも物資補給などを有利に進める事ができました。

開戦時、露軍が満州に配備する戦力は6個師団であったが、その3分の1に当たる2個師団約3万名が旅順及び大連地域に配備された。

ロシア側は、国内の混乱によって、シベリア鉄道を経由した物資補給などが思うように行われていなかったとされています。

東郷が旅順の第三軍司令部を訪れたときの記念写真とされていて、乃木大将、東郷元帥、中段右から4人目は秋山真之/後に海軍中将など。

数万人もの死者を出した旅順の攻撃

旅順要塞は、旅順港を囲む尾根上に塁線を廻らせるもので、要所に砲台を配していた。

。中でも東鶏冠山砲台は難攻不落で、旧日本軍はこれを繰り返し攻めて、多数の犠牲を出した。左側の斜面にあるのが旧日本軍の塹壕。

日露戦争の陸上戦においては、丘の上を奪い合うような戦いで、多くの兵士が命を落としました。

旅順のロシア軍首脳と記念撮影を行う日本軍の乃木大将など。

日露戦争の時に利用された機関銃で、日本兵が多数死傷する要因ともなりました。第一次世界大戦でも機関銃が使われており、塹壕戦が行われるようになりました。

軽量化が図られた上に毎分500連発と実用性の高い機関銃であるマキシム機関銃は、この戦闘で世界で初めて本格的に運用され威力を発揮した。機関銃陣地からの十字砲火に対し、従来の歩兵による突撃は無力であることを実戦で証明した。

第一回総攻撃で予想以上に要塞が強固で、第三軍は15,860名の死傷者を出してしまいました。そこで井上幾太郎工兵少佐が「築城攻撃」を提案しました。築城攻撃というのは敵の陣地まで壕を掘り進め、堡塁(ほうるい)真下で爆薬を仕掛けて爆破

機関銃陣地からの十字砲火に対し、従来の歩兵による突撃は無力であることを実戦で証明した。

旅順要塞は、日清戦争(1894年)から10年あまりの間に強化されて、強固な近代要塞に改良されていました。

第三回総攻撃:11月26日に開始され、二龍山以東の一戸堡塁、東鶏冠山、松樹山にいたる旧囲壁への攻撃を繰り返したが、日本の各師団はことごとく目標を達成できなかった。

◆無謀すぎる突撃作戦

この攻撃の背景には、日本軍のアリサカ・ライフルが米国のガーランド・ライフルの性能と比べて絶望的に劣っており、その他火力でも遅れを取っていた日本軍にとっては、バンザイ突撃が唯一の希望であったと言える。

バンザイ突撃は歩兵だけの戦術だったので、全く無意味な結果を招く場合がほとんどであった。

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misukiruさん