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mototchenさん

RT @gripen_ng: 真珠湾に限らず「○○は戦争になることを知っていた」という説は割り引いてみたほうが良い。山のように入ってくる情報のうちの一つが結果的に正解だっただけの話。その情報の価値を攻撃される前に正確に評価できなかった、ありふれた普通の失敗。

1934年(昭和9年)9月「俺も軍人だからね。どうしてもアメリカとやれといわれれば、アメリカともやってごらんにいれたいね。……俺の夢なんだからね。空母10隻、航空機800機を準備する。それだけで真珠湾とマニラを空襲し、太平洋艦隊とアジア艦隊を潰すことは確実にできるんだよ」「少なくとも一年間は、太平洋にアメリカの船と飛行機が存在しないってわけさ。それだけの戦争はやって見せる」と斉藤博駐米大使に語った

15年3月、山本は、「統一指揮による大飛行機隊の昼間雷撃訓練の見事な攻撃ぶり」を目撃して、傍らの福留参謀長に「飛行機でハワイをたたけないものか」(「福島繁少将 戦後の回想」[『戦史叢書ハワイ作戦』79頁])

15年夏、政府は「対米戦に進展必至と判断されるような強腰の政策」を決定したので、山本もこれに応じて「対米作戦構想」を案出した。しかし、「唯一の方策である航空母艦をもって開戦劈頭ハワイにある米艦隊主力に対し奇襲する案は、あまりにも危険性が大きく、投機的すぎる」と思われていて、山本もこれを「決断しかねていた」(『戦史叢書ハワイ作戦』80頁)

 16年10月24日付島田海相宛書簡(『戦史叢書ハワイ作戦』81頁)で、山本は、①「種々考慮研究」の結果、「結局開戦劈頭有力なる航空部隊を以て敵本営に斬込み 彼をして物心共に起ち難き迄の痛撃を加ふるの外 無しと考ふるに立至りたる次第」であり、②「敵将キメルの性格」

戦後になって、真珠湾攻撃をなぜやるかという、山本さんが自分の本当の意図を明かした手紙が2通出てきました。昭和16年1月に及川古志郎という当時の海軍大臣に当てた手紙と、昭和16年10月、真珠湾攻撃の直前に、嶋田繁太郎という当時の海軍大臣に当てた手紙です。その手紙を読みますと、山本さんは「この戦争を終わらせたいからやる」と書いています。ここで乾坤一擲の大勝負をかけて、そしてこの結果、本当にアメリカの士気を奪い去って、同時に戦争を終結、つまりある種の有利な条件を持って、終わりにしようと。その意図をもって真珠湾に攻撃をかけるということを、山本さんははっきり書いています。
  戦争決意には反対である。戦争をやれば、日本は亡国である。3度も東京は空襲で丸焼けになるだろう。そして、海軍大臣以下、総理大臣を含めて皆、国民から絞首刑にあうだろうということも予言し、反対をしている。

1941年1月27日、東京のグルー大使から次のような電報が届いた。--日本駐在のペルー公使がグルー大使に対して「各方面から聞いたのだが、日本の軍部は日米間に事が起こった場合には真珠湾を奇襲する準備をしている。この攻撃は日本の全軍事力をあげてやるということだ」と語ったというのである。ペルー公使は、バカバカしいような計画だとは思うが、あちこちから聞くし、日本側からも入ってきている情報なので、あえて伝える気になったのだ、とグルー大使に述べた。翌日私はこの電報の内容を陸、海両省に報告した。

ポポフの回想録「スパイ/カウンタースパイ」によると、「トライシクルの質問状」は、ポポフが同年7月、ポルトガルのリスボンで独諜報機関のアプヴェール(国防軍情報部)から「米国でスパイ網を組織せよ」との指令を受け、渡された調査リストだった。この中に真珠湾の米軍施設や米艦隊などが含まれていたという。

ポポフは、アプヴェールの同僚から、1940年11月に英海軍が航空機でイタリアの軍港タラントを奇襲した攻撃手法に日本が関心を示していると聞いていたため、日本がタラント海戦に倣って真珠湾を攻撃すると推測したという。

アプヴェーアによってポポフがアメリカに派遣される直前の1941年8月、アメリカでの調査リストの中に真珠湾の軍施設、並びに米艦隊の状況について調査する、という項目が含まれていたことでした。ポポフはここからドイツの同盟国である日本が真珠湾を攻撃するのではないか、と予測し、当時のフーバーFBI長官に進言したとのことです。これに対してフーバーはポポフを全く信用しておらず、この情報もフーバーが個人的に握りつぶしてしまったと言われていますが、このポポフ情報はアメリカのローズベルト大統領が日本の真珠湾攻撃を事前に知っていたのにそれを黙認したという真珠湾謀略説の根拠として用いられてきました。
 この話はポポフの回顧録でしか語られていなかったので、その信憑性が疑われていたのですが、1982年にミシガン大学の歴史学者、John Bratzel とLeslie Routが “Pearl Harbor, Microdots and Edger Hoover”と題した論文を発表し、ポポフの真珠湾情報はフーバーには伝わっていたが、ローズベルト大統領までは上げられなかった、という結論が導き出されています。

海軍、永野修身軍令部長は「海上輸送は日本の生命線でありますので、 その保護には力を尽くすが損害もある程度あるでしょう。」 更に、昭和天皇に対し、11月8日真珠湾攻撃を含めた御前兵棋演習の趣旨説明が行われた

1941年11月8日海軍作戦計画の上奏文では、フィリピン、マレーに対する先制空襲と同じくして、ハワイ停泊中の敵主力艦隊を、航空母艦6隻を基幹とする機動部隊によって空襲すると述べている。攻撃地点についても、オアフ島北方200マイルから全搭載機400機を発信して航空互換、戦艦、航空機を目標として奇襲攻撃を加えるとしている。香港,シンガポール攻略についても,作戦が述べられている。この上奏文は,陸海軍高官が認めた最終攻撃計画であり,開戦予定日(12月8日)のちょうど1ヶ月前に真珠湾攻撃計画も含め,統帥権を保有する大元帥昭和天皇に,臣下として報告がなされたのである。

11月26日の朝、ルーズベルトの下に軍部から驚くべき情報がもたらされた。「数10隻からなる日本の輸送船団が、台湾沖を南に移動している」というのである。これは、米軍部の過大報告だった。これを聞いたルーズベルトは烈火のごとく怒った。「日本は和平交渉で、インドシナからの撤退を口にしながら、遠征軍を送ろうとしている。これは握手を求めるもう片方の手で、短剣を突きつけるようなものだ。日本をもはや信用することはできない」と。

巡洋艦ボイシは、空港建設資材を輸送するために太平洋経由でフィリピンに向かう5隻の商船を護衛する任務に就いていた。1941年11月28日の夜明け前、巡洋艦の拡声器から乗組員達へ、戦闘体制を告げる命令が鳴り響いた。

慌てて甲板に上ったフェントンは、2ダースほどの国籍不明艦が3マイル先の地平に見え、東に向かっているのを確認した。月明かりに照らされ外形が浮かび上がったその艦隊は、巡洋艦ボイシの存在に気づいていなかった。

多勢に無勢の状況で、無線通話停止命令の下、巡洋艦ボイシは艦隊に発砲することなく、数日間後まで目撃事実を伝えられなかった。

巡洋艦ボイシがマニラに達すると、ボイシの乗組員達はダグラス・マッカーサー将軍の側近達に目撃事実を報告した、とフェントンは語っている。彼の記憶によると、将軍側の返答は「我が軍同様、連中にも海に入る権利はある」というものであった。

「日本は週末にかけて攻撃してくるかもしれない」 真珠湾攻撃1週間前の1941年11月30日付[米国時間]ハワイ『ヒロ・ヘラルド・トリビューン』紙 #CONSPIRACY #PearlHarbor #WWII #真珠湾の真実 pic.twitter.com/J2eEqOxsEz

前日の七日だったか、それより一日前だったか、例のE3A暗号の解読から、中国と日本にあるイギリスの全領事館にあてて、「暗号および機密書類を焼却せよ」という指令が出ており、それはたぶんシンガポールあたりの発信と思われたが、間もなく各領事館から「焼却せり」という回答があった。
「昭和の戦争―ジャーナリストの証言〈8〉諜報戦争」p159(講談社)に書かれた、赤羽龍夫

アメリカがルーズベルトの親書を日本に打電(日本時間7日午前11時)

(正午に日本着)

アメリカのマスコミがルーズベルトが天皇に親書を発送したことを公表

駐日大使グルーがアメリカのラジオ放送を通じて親書の件を知る

(約10時間の空白)

グルーが親書の電報を受け取る(午後11時)

東郷外相と会見し天皇との拝謁要求

真珠湾攻撃部隊が発進(午前1時半)

天皇に拝謁しルーズベルトの親書を読み上げる(午前2時半)

後に東条英機は、親書があと1、2日早く着いていたなら、
戦争ははじまらなかっただろうと述べている

1941年12月7日12時に中央郵便局に着電したルーズベルト大統領の親電(大至急指定)は,参謀本部作戦課の瀬島龍三と通信課参謀の戸村盛雄の共謀により22時30分にグルー大使に配達された

陸軍参謀本部・海軍軍令部が解読したという証言・物証は未発見だが,外務省電信課が宣戦布告電文第14部発電後に親電を解読したという証言はある.参謀本部の解読担当責任者中野勇参謀は戦死

第一章 井口武夫「開戦神話」(中央公論社)批評

1941年12月7日の日本海軍機動部隊による真珠湾空襲より前の0645に真珠湾入り口で,米海軍の旧式駆逐艦「ウォード」USS Ward の乗員が国籍不明の潜水艦(実は甲標的)を発見し,4インチ砲で攻撃し,撃沈したという報告が確認されたのである。このとき,駆逐艦「ウォード」の通報は,真珠湾の海軍司令部に無視されてしまったため,日本海軍空母艦載機に真珠湾を奇襲されることになった。

2002年8月28日、真珠湾口で、特殊潜航艇「甲標的」が発見された…

魚雷2本を搭載した2人乗り潜航艇5隻が真珠湾に潜入を企図。雷撃を試みた艦もあるが、戦果なし。船体前半部分は,砂浜上に露出しているが,後半船尾部分は海中に埋まっている。

3月27日、日本郵船会社の「新田丸」が、横浜から7日と5時間37分という新記録をつくって、ホノルルの第8号桟橋に横付する。
 この船には、同地の総領事館に赴任する外務書記生森村正が乗っていた。
 桟橋には総領事館の人らしいものが出迎えている。
 「総領事館のお方ですか、森村です」
 「いらっしゃい、どうもご苦労さん」
 「よろしくお願いします。……」
 森村は一緒に領事館の自動車で、ヌアヌ街の日本総領事館にむかった。案内されて総領事の部屋にはいった。
 「森村正、ただいま着任いたしました」
 まじめな顔をした森村が軍隊式に挨拶して頭をさげると、総領事の喜多長雄は、にこにこしながら森村に椅子をすすめて声をひそめた。
 「吉川君だろ、軍令部から頼まれてきたよ。わかっているョ。……」

1941年3月27日(現地時間)、ホノルルに到着。ホノルル滞在時は諜報活動を行っており、収集した情報は喜多長雄総領事の名で東京に暗号にして打電していた。また、その情報の多くは当時の日本軍において大いに役立つものであった。彼の正体は総領事以外誰も知らされず、彼の行動は何も知らない現地の日本人移民や日系人の善意を利用して行われた。最後の打電は1941年12月6日の第254番電で、太平洋戦争開戦(真珠湾攻撃)の6時間前に東京に届いた。真珠湾攻撃の事は何も知らされておらず、攻撃開始時は自宅で普段と変わらぬ朝食を摂っていた。

中でも森村正は、喜多と奥田のアウト・サイド・マンとして働くため日本から送られていることは明らかだった。
森村の名前は日本外交官名簿に登録されておらず、役職もはっきりしていなかった。
一等書記官と言われたり秘書官と発表されたり、整合性に欠けていることからも、
FBI は森村があの松岡洋右外務大臣が不用意に打電した電報のスパイであることは間違いないと判断した。
 
バーンズが森村正をマークし出してから半年、彼の行動に最近変化を見るようになった。
森村がホノルル日本領事館に着任したのが1941の3月27日。
当初はかなり勢力的にこのオアフ島の軍事施設をスパイしていたが、一時その勢いが下降線を描き、やがてだらだらと平行線となった。
そして8 月 9月になるとそのカーブは再び右肩上がりになり10月後半に入ると急上昇

森村自身は全くそれに気が付かなかったらしい。
ここに戦後森村が残した「東の風、雨」と言う著書があるが、
「私のスパイ活動はアメリカ側に全く察知されず任務を遂行した!」と記している。

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