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これが明治時代…!? 彩色写真家・日下部金兵衛が写した美しい日本

明治時代の白黒の写真に手描きで彩色を施し、海外で人気を博した日本人写真家、日下部金兵衛。私達が持つ明治時代の写真とはあまりにイメージが掛け離れた、かつての美しい日本の風景・風俗を伝えるその写真に心を奪われます。

更新日: 2014年08月26日

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明治時代の彩色写真家、日下部金兵衛

▷「宴会」と題された日下部金兵衛による彩色写真。
女装して箒を“奏でる”男性、箸で“打楽器を演奏”している男性など、当時の宴会の様子が活き活きと写されている。

日下部金兵衛 (Kimbei Kusakabe) – 1841-1934
明治時代の日本の文化、暮らし、風景等を色付きの写真として多くの作品を残した、‘明治時代カラー写真の巨匠’

日下部金兵衛(くさかべ・きんべい)は、幕末から明治時代にかけて活躍した写真家。

横浜写真を象徴する写真師のひとりで、蒔絵アルバムの創始者ともいわれる

開港によって西洋文化が流入した横浜では、西洋の技術と日本の伝統文化が融合した様々な文物が生み出されました。
日下部金兵衛が創始した、表紙に豪華な蒔絵を施した写真集「蒔絵アルバム」もそのひとつです。

明治の彩色写真ではこの人の右に出る人はいない。といっても知る人は少ない。

日本ではあまり評価をされて来ず、海外での評価に比べ国内での知名度は高くありません。

写真家・日下部金兵衛の人生

1863年(文久3年)頃から、横浜のフェリーチェ・ベアトのスタジオで写真の着色技師として働き始めた

当時の写真は白黒です。これを水彩絵の具を使ってカラー写真にするのが、日下部金兵衛の仕事でした。
フェリーチェ・ベアトはイタリア生まれ、イギリスの写真家で、東アジアにおける重要な写真を数多く残しました。日下部金兵衛は彼のもとで、彩色のみならず写真機材の知識など数多くのことを学びました。

1881年(明治13年)頃に独立し、横浜の弁天通に写真スタジオ「金幣写真」を開設、まもなく日の出町にも支店を出した

開港によって外国人が多く訪れた横浜とあって、金兵衛の写真は徐々に外国人からの評価を高めていきました。

金兵衛が撮影した被写体は非常に広範囲に及び、風景はもちろん、市民の日常生活、職業人物の姿、俳優、芸者遊び、果ては切腹や磔になった罪人等、他の人があまり選択しないであろう物も写真に収めていた

地震研究家の間ではよく知られていた、濃尾地震の際に出現した巨大な活断層の写真も金兵衛のものであったと、後に判明しています。

見事なまでの写真技術と手彩色により、西洋人が夢中になる「日本」を表現した

金兵衛自身、外国人にとって発音のしやすい「Kimbei」を名乗って活動していたようです。

欧米人とは全く異なる日本人の風俗・習慣を写したこの写真は、外国人に喜ばれ、蒔絵を配した表紙のアルバムが明治の中ごろ、横浜の波止場から外国人の帰国みやげとして旅立っていきました

しかし、日下部金兵衛は日本写真史からは不当に無視されていた。金兵衛の写真は主に海外向けの高価なお土産であり、特殊な輸出品でもあったからだ。

当時、日本では彩色写真はあまり評価されなかったこともあり、未だに日本での知名度は高くありません。

海外で高く評価された「金幣アルバム」

▷ 豪華な蒔絵が施された「金幣アルバム」。

彼のアルバムのほとんどは、アコーディオン方式で作成されており、螺鈿細工や蒔絵を表紙に施した豪華なもので、現在では「金幣アルバム」などとも称される

今の貨幣価値では一冊50万円、明治10年代から30年代まで、何十万冊も輸出されたらしい

当時、日本の貨幣価値は今とは比較にならないほど低く、職人による手間のかかった芸術的なアルバムにしては外国人から見ると驚くほど安かったため、飛ぶように売れたようです。

日本で忘れられていた日下部金兵衛は、海外では広く「KIMBEI」として知られ、現代に伝えられていた

日本で忘れ去られていた金兵衛の名は、昭和54年に出版されたClark Worswick氏による写真集 「Japan: Photographs 1854-1905」で再び脚光を浴びることになります。

写真

▷ 大宮からみる富士山。

▷ 1890年代の横浜 • 伊勢佐木町二丁目。

出典xaxor.com

▷ 楽しそうな女性。この時代の人の笑顔の写真って、あまり見ないような…。

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