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心を病んだ果てに…湯口敏彦投手 死の真相

読売ジャイアンツに所属していた左腕投手「湯口敏彦」の死の謎に迫りました。

更新日: 2018年04月27日

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romonさん

・プロ入りまで

生年月日:1952年6月3日

出身:岐阜県

身長:180 cm

体重:75 kg

岐阜短期大学付属高等学校(現在の岐阜第一高等学校)のエースとして、1970年甲子園大会に春夏連続出場。

制球に難はあったが、彼の速球は一級品だった。それを武器に甲子園でベスト4に入り、巨人に1位指名される。

・異変

ストレートの伸びには光るものがあったが、コントロールに難があり、二軍で練習の日が続く。

即戦力として期待される重圧の中、なかなか芽を出すことができない。投球フォームを矯正されたり、外出も許されず座禅を組む等の精神修養まで強制された。

ファン感謝デーの紅白戦で、めった打ちにされ、監督やコーチから激しく叱責された。これを苦に病んだ湯口は、心身のバランスを失い精神病院へ通うようになった。

・帰らぬ人に

3年目の1973年初め、病状が改善したとして、2月中旬に宮崎県で行われた2軍キャンプに合流。

マスコミを警戒した球団側の意向もあったといわれている。

ところが、同室の選手が話し掛けても反応しない、真夜中に奇声を発する等の異常な行動をとる。

巨人が報道陣に対して箝口令を敷く中、わずか1カ月後に精神病院で急死した。

夕食を取ったあと心臓発作を起こし、パジャマ姿で床に倒れていたという。

・背景

当時、精神障害はタブー視され、球団もひた隠しに隠した。これが返って、湯口の「心の病」を悪化させた。

「うつ病」が薬で治療できる病気であると認識され始めたのはここ数年のことで、以前は”伝染する”という誤解もあり、本人をはじめとしてその家族まで偏見や差別的な扱いを受ける病だった。

口数が少ないこともあり、同期入団の選手らとも心を許して話すことは少なかったという。

湯口は繊細な性格をしていたため、プロという勝負の世界は厳しすぎたとも言われている。

画像はイメージです

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