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日系ブラジル人100年の歴史

ブラジルへ渡った日本人移民の苦難と成功の歴史

更新日: 2014年06月19日

一瀉千里さん

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ブラジルは世界最大の日系人居住地であり、1908年(明治41年)以降の約100年間で13万人の日本人が移住し、現在は約160万人(ブラジルの総人口の約0.8%)の日系人が住むといわれている。

1895年(明治28年):日伯修好通商航海条約締結
1897年(明治30年):日本の公使館が設けられた
1908年(明治41年):正式移民開始(「笠戸丸移民」)
1915年(大正 4年):初の日本人学校「大正小学校」開設
1942年(昭和17年):日伯国交断絶
1951年(昭和26年):日伯国交回復
1953年(昭和28年):日本人移民受け入れ再開
1954年(昭和29年):日系ブラジル人2世田村幸重が連邦議員に就任
1973年(昭和48年):移民船による移民廃止
1989年(平成元年):日本の出入国管理法が改正
2008年(平成20年):日本人移民100周年(日本ブラジル交流年)

ブラジルは何故移民を必要としていたのか?

ブラジルはアフリカ大陸から送りこまれた奴隷を農業労働者として重用していたが1888年に奴隷制度廃止を行い、その後農業労働者不足となりヨーロッパ諸国からの移民を受け入れ始めた。
しかしイタリア人移民が奴隷のような待遇の悪さに反乱をおこし移民を中止したために再び農業労働者が不足となった。これを受けてブラジル政府は1892年に日本人移民の受入れを表明した。
しかし日本政府はイタリア人移民の事案を根拠にブラジルへの移民を躊躇した。

コーヒー農園で使役される奴隷(1885年)

北米での日本人移民への迫害

明治時代多くの日本人移民を受入れていた米国で、人種差別を基にした日本人排斥連盟の活動が激化した、その会員は400万人を超え、1900年(明治33年)に日本政府は米国への移民を制限した。
1904年(明治37年)に起きた日露戦争で日本は勝利をおさめたが賠償金を得られず経済は困窮し農村の貧しさが深刻になっていたが、アメリカ政府は日本人移民受入れ数の制限を強化し、移民受入れ先として有望視されていたオーストラリアやカナダも日本人移民を制限したことから、日本政府は新たに移民の受入れ先を模索することとなった。

排日暴動で襲われたサンフランシスコの日本人街
(1907年)

排日暴動で襲われたバンクーバーの日本人街
(1907年)

日本人の新たな移民先となったブラジル

1905年(明治38年)にブラジル政府から日本人移民の実施を打診されたのを受けて移民の送り出しを行っていた「皇国殖民会社」が1907年(明治40年)にサンパウロ州と契約を締結し日本全国で移民希望者を募った。募集期間が半年弱と短く「家族単位での移民」という条件のため希望者を集めるのに苦心したが最終的に781人が第1回の移民として皇国殖民会社と契約を行った。
そして1908年(明治41年)東洋汽船の「笠戸丸」でサンパウロ州のサントス港へと向かった。

笠戸丸甲板上の日本人移民

サンパウロ州サントス港到着後の初期移民たち

ブラジルでの過酷な境遇

「皇国殖民会社」が移民希望者を募る際にブラジルでの高待遇を喧伝しており、移民の殆どは数年間契約労働者として働き金を貯めて帰国するつもりであった。しかし先に移民して来たイタリア人同様に日本人も法律上の地位こそ自由市民であったものの、一部の農場を除きその実情は奴隷と大差ないものであった。あまりの待遇の悪さからストライキや夜逃げも多く発生し近隣の州やアルゼンチンへと渡る者もあらわれた。1909年に外務省が調査した結果、笠戸丸で移民し当初契約したコーヒー園に定着したのは全渡航者の4分の1のみであった。

低賃金と厳しい監督下でのコーヒー園での労働

コーヒー園での休息風景

自作農として独立し成功する

コーヒー農園から逃亡した多くの日本人移民は資金を出し合い共同で農地を取得し、1919年(大正8年)には初の日系農業組合として「日伯産業組合」を設立した。その後多くの日本人移民が自作農と成ったり日本人移民向けの商店や工場、医師を開業する者も現れた。コーヒー価格の暴落の際には他の農産物へ転換する者も多く、特に胡椒や紅茶栽培は大成功を収めた。
現在ブラジルで栽培されている農産物の多くは日本人移民が持ち込み品種改良などを通じてブラジルの赤土での栽培に成功したものである。

ブラジルの原始林を開墾する移民たち

日本人移民が運営する茶畑

昭和初期に日本人移民の最大受入れ国となるブラジル

これまで移民の送り出しを数社の民間企業が行っていたが、1917年(大正6年)日本政府は「海外興業株式会社」を設立し窓口を一本化した。
それまで最大の日本人移民の受入れ国であったアメリカは、再び日本人移民や日系アメリカ人に対する人種差別が激化し黄禍論が勃興し日本人移民の受入れを実質禁止した。
日本政府は国策としてブラジルへの移民を推奨するようになり渡航費の全額補助などの施策を打ち出した。これを受けて1920年代後半にはブラジルが最大の日本移民受入れ国となった。
日本人移民や移民2世の増加を受けてブラジル全土で日本語学校の開設が相次ぎ1930年代前半には200を超えた。これらの学校は基本的には日本人移民たちの寄付で運営されていた。

1913年(大正2年)カリフォルニア州議会で排日土地法が成立
1924年(大正13年)米国上下両院にて排日移民法が可決される

海外興行株式会社による広告

1930年代から移民同化政策を推進したブラジル

増え続ける日本人移民とその成功や、1930年代に入り日本の対外侵攻が相次ぎ日本人移民排斥の気運が高まった。更にブラジルでは全ての国からの移民に対し同化政策を進め公立学校での外国語の授業を禁止し、1938年(昭和13年)には日本人学校の廃止が行われた。そして路上で母国語を話した日独伊からの移民が逮捕される事件が頻発した。1930年代後半には日本へ帰国する移民が相次いだ上に、日米の関係悪化で太平洋航路が運休され1941年(昭和16年)日本人移民の受入れが停止された。

1930年代の日本人小学校の卒業式

コーヒー栽培が禁止されたあと綿を作る日本人家族。1930年代頃

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一瀉千里さん

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