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恐すぎる聖徳太子の予言… 現代に関わる予言とは

「冠位十二階」「十七条憲法」で知られる飛鳥時代の偉人「聖徳太子」 日本の紙幣は一時、千円札・五千円札・1万円札の肖像画は全て聖徳太子だった時があったほどです。その聖徳太子は数々の予言を残しており、いくつかが当たっているということですが、中には恐ろしい予言の数々があります・・・

更新日: 2017年09月13日

kcookingkさん

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あの顔は本人ではない?

最近では、お札に使用された誰もが知っている聖徳太子の肖像画が実は、本人の顔ではない
という説がでている。

存在疑惑も

そして、今では聖徳太子の存在すらも疑われだしているのだ。このように、何かと謎の多
い聖徳太子、一体どのような人物だったのだろうか?

聖徳太子伝説

用明天皇の第二皇子

聖徳太子(574年2月7日~622年4月8日)は、用明天皇の第二皇子として生を受ける。
生まれた場所は宮中の馬小屋の前だったため厩戸皇子(うまやどのおうじ)と呼ばれていた。

キリストと同じ?

馬小屋といえば、イエス・キリストも馬小屋で生まれている。そのため、聖徳太子は
キリストの生まれ変わりだという説や、キリストの話が日本に伝来して聖徳太子の話に
なったという説もある。

キリスト教

キリスト教が日本に入ってきたのは戦国時代と言われているが、それよりもずっと前の時代に、
シルクロードを通って日本に伝来してきた可能性もある。聖徳太子のブレーンとして活躍した
渡来人の秦河勝(はたのかわかつ)は景教(キリスト教)徒のユダヤ人であるという説もある。

6世紀後半から7世紀半ばにかけて大和朝廷で活動した
秦氏出身の豪族。姓は造。秦丹照または秦国勝の子と
する系図がある。冠位は大花上。

これらから仏教を日本に本格的に広めた聖徳太子だが、
キリスト教とも何らかの関わりがあっただろう。

聖徳太子の能力

生まれてすぐに言葉を発し、幼少の頃にすでに国内外の
学問を修め高僧の域に達した天才児だった。

聖徳太子には不思議な力があったとされている。

1度に10人の人の話を聞くことができ、馬に乗って空を
飛び富士山の頂上に登ったという。

物部氏との戦い

14歳の時、物部氏との戦いにおいて仏教を奉ずる立場で蘇我氏の軍に加わっていた
聖徳太子。木の枝を4本削って髪に差し「これは四天王である!」と叫んだ途端、
矢が敵の総大将である物部守屋に当たって死んだ。これにより崇仏派の蘇我氏が勝利。
そして聖徳太子の手によって仏教が日本へと徐々にと広められていくことになった。

予知・透視能力

未来を予言

『日本書紀』の巻の二十二には、太子が「兼知未然」と記されてある。未然は未来と同義語。
つまり、聖徳太子には未来を示す予知能力があったことを日本の正式な歴史書が証明している。

恐ろしすぎて殆どが削除対象に?

『日本書紀』では、太子が予言者であったこと以外に、具体的な予言の内容までは書かれて
いない。これは、太子の死後、時の権力者によって自分に都合の悪い部分やあまりにも怖ろしい
記述に関しては、バッサリ削ったためだといわれている。

ハルマゲドンを超える出来事が起こる?

ただ、日本仏法では、伏伝(最高の秘密の言い伝え)として、古い寺などで聖徳太子の予言が
こっそりと伝えられているそうで、太子が「聖書のハルマゲドン以上の怖ろしいことが起こる」
という予言をしたといわれている。

そして、太子が残した幻の予言書に『未来記』というものが
あるのだが、文書としてはっきりと形が残っていない。

『未来記』を元本とし、大きく影響されて書かれたと
思われるものに『未然本記』というものは存在する。

しかし、聖徳太子の『未来記』『太子の予言』と呼ばれてきたものは、歴史上の人物の
伝承や古文書のなかにポツリポツリと現れる程度である。

『太平記』によると、鎌倉時代から南北朝時代まで活躍した
武将、楠木正成は四天王寺で『未来記』を見たと記されてある。

建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に活躍。
尊氏の反抗後は南朝側の軍の一翼を担い、湊川の
戦いで尊氏の軍に破れて自害した。鎌倉幕府からは
「悪党」と呼ばれた。後醍醐天皇の側近として名和
長年、結城親光、千種忠顕らとともに「三木一草」
とよばれた。明治以降は「大楠公(だいなんこう)」
と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈
された。

そこには、楠木正成率いる軍勢が勝利し、鎌倉幕府が倒れ、
後醍醐天皇が復帰する旨が書かれてあった。

それを見て楠木正成は己の天命を悟ったという。

その後、実際に後醍醐天皇、足利尊氏や新田義貞らとともに鎌倉幕府を倒したのだった……。

「私はまもなく死ぬし、子孫は一人も残らない」聖徳太子は
自らの悲劇的な運命も予言していた。

太子は病死とされているが、蘇我入鹿に暗殺されたともいわれている。

聖徳太子の遺言

太子の死後、一族は入鹿軍に囲まれた。太子の「争ってはならぬ」という遺言を守り、集団
自決をしたのである。その悲劇のあった場所は、五重の塔の近く。一説によると法隆寺は、
一族もろとも残虐に滅ぼされた聖徳太子の怨霊を封じ込める場所だともいわれている。

現代に続く聖徳太子の予言

聖徳太子は25歳の時、人類の終末とも言える重大な予言を残している。

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kcookingkさん

クルマ・バイク・芸能・スポーツ・医療・事件を中心にまとめております。
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