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あの偉人は意外な人物だった~驚きの歴史雑学

あの偉人は意外な人物だった・昔はこんなしきたりだったとわかる驚きの歴史雑学を集めました。

更新日: 2018年07月16日

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torinaviさん

すごい偉人にも恥ずかしい一面がある

歴史の教科書で学ぶ過去の偉人たちはすごい偉業を達成していて、多くの人が尊敬の念を持っています。
でも同じ人間であるため、恥ずかしい失敗・変な趣味を持っているなど、あまり知られていない一面もあるようです。

◆おもしろい歴史ネタTwitterつぶやき

新選組の土方歳三は「モテてモテて困る」という手紙を親戚に送ったことがある

日本のお城にある松は、栄養食、非常食として利用するため、たくさん植えられている

平安京に移らなきゃ奈良が首都
鎌倉幕府が滅びなきゃ鎌倉が首都
本能寺が無ければ安土が首都
家康が江戸に飛ばされなきゃ名古屋が首都
戊辰戦争で平和に和睦してれば函館が首都
日清戦争が長引けば広島が首都
関東大震災で首都移転してれば岡山か福岡が首都
WW2が長引けば長野か山梨が首都

【遅咲きの有名画家】
ゴーギャンは35歳で株の仲買人を辞めて画家を目指した。
モネの初個展は39歳、ルノワールの初個展は42歳、
ルソーは49歳で税関吏から脱サラ、セザンヌの初個展は56歳。

アマテラスは引きこもり
紫式部は腐女子
清少納言はブログ女
紀貫之はネカマ
かぐや姫はツンデレ
聖武天皇は収集ヲタで正倉院はヲタ部屋
素敵な偉人がいっぱい!それが日本!

◆東洋の歴史雑学

ある日、徳川吉宗が幕府の節約のために大奥の美人を大量に首にした。もちろんそれに対して文句を言う人はいたが吉宗はこう返した。「お前ら美人はどこ行っても生活できるだろ。残ったブスは俺が面倒見ないと生きていけないから首にしなかった。」聖人なのか畜生なのかよくわからないエピソード。

武藤喜兵衛こと真田昌幸さん。
大阪冬の陣で「真田が入城」との一報が徳川家康に入った。
家康さん「それってパパの方?息子の方?(震え声)」
なお、昌幸は既に死んでた模様、だが家康さんはガチでビビってて死んでたことを疑ってて話聞きながらぶるぶる震えながら聞くほどビビられてた存在。

江戸時代の飢饉に苦しむ農民たちを救ったのが「サツマイモ」だった

大奥では人に見られながら用を足さなければならなかった。

石田三成は、首を打たれようとしていたとき、勧められた干し柿を「干し柿は体に悪いからいらん」と言って断ったという。

動物が好きなことで有名だった徳川綱吉だが カラスが大嫌いだった。

昔の人も手書きのくずし字をすらすら読めたわけではない。国文学者の芳賀矢一は学校で草書を教えるのをやめ、楷書を常用すべきと説いた。また、大山巌の遺品には、受け取った手紙を部下に楷書で清書させた書類があるが、その書類を元々の手紙と照らし合わせると、所々読み間違えている。

日本の歴史上最強の弓術を持つといわれる那須与一。
源平合戦の屋島の戦いで、夕暮れの暗い中、大風でゆらゆらしている70メートル先の船の上にあった扇を射抜いたという。
ちなみにエヴァンゲリオンの「ヤシマ作戦」はこの人の長距離狙撃からとっている。

伊達政宗は右目を恥ずかしく思い眼帯をしていた。お墓の発掘調査調査により天然痘で右目を失っていないことが明らかとなっている。専門家は、伊達政宗はオッドアイだった可能性が高いと指摘する。

徳川家康は超倹約家で、ふんどしは汚れが目立たなく、洗濯の回数を減らせるように薄黄色の物を使っていた。

豊臣秀吉の髭は付け髭

大隈重信は字の上手い同級生に負けたくない一心で死ぬまで一文字も文字を書いたことがない

服部半蔵は忍者では無く、実際は三河武士で伊賀忍者衆の管理職的なポジションだった

伊達政宗は謝る時超ド派手。遅刻したら真っ白い服着てごめんなさい。謀反疑われたら金の十字架担いで登場。派手な振る舞いをする男・派手な格好の男のことを「伊達男」というようになった語源。

徳川綱吉の「生類憐みの令」は悪法として名高いが実はこの法は人間にも適用されていたので、そのおかげでそれまで捨置かれていた老人、病人、障害者の面倒をちゃんと看るようになり、現在の「親切な日本人」の発端となった。

昔、遊郭では銅鑼を鳴らしてお客を呼び込んでいました。そこから「鐘を突く」と「金を尽く」をひっかけて、遊びまくる息子の事を ドラ息子と呼ぶようになった。

真田幸村という武将は存在しない。真田信繁という武将をモデルとした小説が江戸時代に流行ったが、それを真田幸村という人物が実在したと勘違いしている人が多い。つまり幸村はハリー・ポッター。

◆西洋の歴史雑学

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