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森鴎外はエリート医師のプライドで多くの軍人を死に至らせたのか?

明治を代表する文豪の森鴎外の本職は医師であり、軍医としてトップの位置まで上り詰めた。西洋医学を絶対視し、東洋医学や民間の食事療法を蔑視したことから、軍人の食事から麦を一掃してしまった。その結果として、多くの軍人たちを追い詰めることになった……

更新日: 2014年07月27日

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kaizinさん

鷗外と陸軍の医療対策

森鷗外はいうまでもなく文学者として高名ではあるが、同時に、東京帝国大学をでて、陸軍軍医としての最高の地位である軍医総監にまで上り詰めた医療官僚でもあった。

明治以来、陸軍と海軍は威信をかけて競い合っていた

暫くは『陸主海従』の状態が続くのだが,1893年,日清戦争の直前の頃になると海軍は「陸軍は朝鮮海峡に自力で橋をかけて,朝鮮に兵を送るのだろう」と嫌味を言ってきたので,止むを得ず海軍が独自の統帥機関をもつことを認めた.
 これが軍令部となるが,陸軍は戦時に,陸軍が最高統帥権を握ることを確保する為に,「戦時大本営条例」を制定し,参謀総長を『統合幕僚長』とし,戦時には参謀次長と軍令部長をその配下に置くこととした.
 そして日清戦争はなんとか『陸主海従』で乗り切った.

軍人たちを苦しめた脚気はビタミン発見まで治療法がなかった

脚気になると、まず足がむくみ、息切れがするようになり、やがて心不全を起こして死に至る。明治八年(1875年)の陸軍の報告書によると、軍隊では百人中二十六人が脚気になり、死亡率は陸軍で22パーセント、海軍でも5パーセントだったという。脚気の蔓延は軍隊にとって、重大な問題だった。

そこで軍医の職にある人びとが脚気問題の解決に当たることになった。だが、いまのわたしたちのように、「脚気」というのがどういう病気なのか、何が原因によって発病するのか、どう治療していけばよいか、そういった知識がまったくないのである。脚気問題を解決しようと思えば、まずは「どのような症状を脚気と呼ぶのか」という症状の定義から始めなければならなかったのだ。

海軍は脚気を根絶していた。。

彼は実験を繰り返すことで脚気の根絶に成功したが、森鴎外は彼に敵意を燃やして高木の方法を決して受け入れなかった。

後に兼寛の研究はビタミンの発見につながり、脚気はビタミンBの欠乏で発症することが証明されます。このことから、高木兼寛は「ビタミンの父」と呼ばれるようになるのです。

海軍医務局長高木兼寛は、明治8~13年のイギリス留学中、ヨーロッパに脚気がないことを知り、白米を主とする兵食に原因があるのを察する。彼は、まず遠洋航海実験で、蛋白を増やした新糧食により脚気の発生が事実上なくなるのを示した。さらに巧みな政治工作で猛反対を押し切り、明治18年以降、兵食を蛋白の多い麦飯に切り替えた。その結果、海軍での脚気はほぼ根絶する。

ところが陸軍では脚気で何万人も死亡させていた

日清・日露戦役での大惨事を起こした陸軍脚気対策に、森林太郎の誤りが深く関っていた事実は、東京大学医学部衛生学教授山本俊一が、1981年初めて、学会誌「公衆衛生」において指摘した。両戦役からすでに一世紀近い月日が経っていた。

脚気対策を明治17年頃終えた海軍に対し陸軍は森鴎外のプライドと面子から「海軍の対策は科学的根拠なし」として真似ようとはしなかった。
その後、国外での戦争が始まると陸軍の脚気病患者は急増した。
海軍の食事改善後も陸軍と森鴎外はその後20年も放置した事になる。

森鴎外は、頑固に麦飯の効果を否定し続け、現場からの要求に応じず、麦を供給しませんでした。その結果、海軍では脚気による死亡患者はほとんどなかったのに対して、陸軍では、日清戦争では 3944人(戦死者は293人)、日露戦争では27800人(戦死者は47000人(この中にも多くの脚気患者がいた))という非常に多くの兵士の命を脚気によって奪う結果となったのです。
 森鴎外らが高木の成果に対して柔軟な姿勢をとっていれば、死なずにすんだ多くの人間の命を奪ったのです。しかし、森鴎外は生涯、誤りを認めませんでした。

明治天皇、皇后陛下も脚気に悩まされていたため、高木を3度も陪食に招き、ご自身、麦飯を食べようとしたが、ドイツ帰りの医者たちは「脚気、黴菌説」に拘って反対。その結果、天皇は医者たちを信用しなくなり、晩年、糖尿病の治療を十分受けなかったといわれている。

科学の発展によって、森鴎外の間違いとプライドによる自説への固執が判明

麦食が脚気を予防するのは、蛋白質ではなくビタミンB1を多く含むからである。ただ、麦食が脚気を予防するというのは事実であり、米食にこだわった陸軍は日清戦争(1894年~1895年)、日露戦争(1904年~1905年)において、多くの脚気患者を出す。

留学中の北里[柴三郎]は、緒方の発見した「脚気菌」について実験を行い「脚気とは無関係である」という論文を発表します。脚気はビタミンB1の不足で起こる病気なので北里の発表の方が正しいのですが、弟子である北里が師である緒方に逆らったのですから、東大では忘恩の輩として非難の嵐が吹き荒れました。森鴎外も北里を激しく非難する論文を発表しています(東大の脚気菌派の人々は、この後も「脚気薗」説を主張し続け、日清・日露戦争では脚気によって3万人を超える陸軍兵士を死亡させた上、脚気治療薬としてビタミンを世界最初に発見した東大農学部教授の鈴木梅太郎を散々批判し、彼のノーベル賞受賞のチャンスをもつぶすことになります)。

世界で初めてビタミンを発見したのは、鈴木梅太郎という人物です。
彼は脚気にかかった鳩に米糠を与えると症状が改善される事を突き止め、1910年、米糠から脚気に有効な成分の抽出に成功します。

同年12月13日、この研究を発表し、抽出した成分を「アベリ酸」と命名、後に「オリザニン」と改名しますが、これこそ現在の「ビタミンB1」なのです。

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