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romonさん

憧れの宝塚歌劇団へ

本名:小笠原 弘恵

生年月日:1936年8月21日

神奈川県藤沢市出身

愛称は「ヒロエちゃん」

中学部の同級生で中学卒業後すぐ宝塚歌劇団に入った松島三那子の影響で、高校を中退し宝塚音楽学校入学。

初舞台は1954年(昭和29年)4月の「宝塚春のをどり」。

月組に所属した。
月組…組名称は『雪月花』にちなんで名づけられた。ナチュラル志向の芸を持ち味に、特に芝居に強いトップスターや助演者を多く輩出している。(wikiより)

事故発生

1958年4月花組公演「春のおどり、花の中の子供たち」で事故は起きた。

同期が風邪で休演したため、香月が代役を務めた。

香月がステージからその地下へと下がっていく途中、乗っていたせり出し装置のシャフトに、着ていたドレスの裾が巻き込まれてしまう。

腰まわりのスチールベルトが香月の胴を締めつけ、身体が真っ二つに切断されされ即死した。

香月の遺体は楽屋に安置された。仲の良かった同期生たちがむせび泣きながら死に顔に美しく化粧を施した。

スチールベルト

ズボンを履くときにずり落ちないように、大抵ベルトを締めます。腰に回してバックルに一方を通したその瞬間、バックルから出た一方を強力な力で引っ張るとします。

物凄い圧力が腹部に加わり、ベルトが強靭な素材で出来ていれば胴体が切断できます。原理はこのようなものでしょう。

なぜ事故は起きたのか

胴体が引き裂かれる原因となったドレスは、香月よりも体の大きかった日夏用のもので、裾が広いものだった。

労働局は香月弘美の死を労働災害死と認定した上で、設備の改善まで安全な大ゼリを除く六台のセリを使用禁止にした。

相手役の松島三那子は

相手役の香月弘美が不慮の事故死をとげた。偶然にも、香月弘美は松島と湘南白百合学園小学部・中学部の同級生であった。

彼女は泣きながら香月の名を大声で呼んだり「私が代わりに死ねばよかった」と叫んだりしながら暴れるなど、半狂乱だったという。

1960年9月ひまわり社より『ヅカむすめのアメリカ日記』出版。同書出版を決意した真の理由は、香月弘美の死を回想した「ああ、無残の記憶に祈る」を世に出したかったからであった。

『ヅカむすめのアメリカ日記』出版前後から、『歌劇』誌上で松島に関する記事、舞台写真は現れなくなる。これが、香月弘美の事故に関する回想を出版したことに対する歌劇団の制裁かどうかは不明。

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