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ガザ地区がなんで空爆されていたのか3分で理解できるまとめ

イスラエルによる空爆が継続されるガザ地区。イスラエルとエジプトの国境の狭い地域だ。約360 km2ほどの地域に150万人の人々が居住している。

更新日: 2018年05月16日

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palezioさん

ガザ地区ってどんなとこ?

狭い地域に150万人が済んでいるガザ地区

ガザ地区とは、左の地図で示したイスラエルとエジプトの国境の狭い地域です。この一角、約360 km2ほどの地域に150万人の人々が居住しています。

イスラエル政府によって事実上隔離されており、主に1948年の第一次中東戦争で生じたパレスチナ人難民とその子孫が居住しています。

塀に囲まれた狭い地域に監禁されているパレスチナ人

ガザ地区は、防護壁で囲まれている。パレスチナ人は、事実上この狭い地域に収容されています。いわば、巨大な収容所なのです。

一方、イスラエル側は、これをテロ対策のための「自衛」のものと主張しています。自衛権という言葉で、パレスチナ人を民族ごと閉じ込めることを正当化されているのです。

パレスチナ人居住地域

パレスチナ人居住地域が、現在二つに分断されているのには歴史的な経緯がある。

1960年代以降、ヤセル・アラファトを中心とするPLO(パレスチナ解放機構・ファタハ)がパレスチナ人の運動の中心となり、1990年代には和平交渉にまで発展していました。

現在、ガザ地区をハマス、ヨルダン川西岸地区をファタハが統治し、パレスチナ自治政府が二つに分裂している状況にあります。

ガザ地区は、第一次中東戦争から第三次中東戦争の間、エジプトの領土だった地域です。一方、ヨルダン川西岸地区は、同じ時期、ヨルダンの領土だった地域です。

ハマスとファタハ

二つの政党、ハマスとファタハ。現在、選挙で選ばれて政権を獲得しているのはハマス

2004年12月に行われたパレスチナ地方議会選挙において過半数の議席を獲得し、さらに2006年1月のパレスチナ評議会選挙でも定数132の議席中で76議席を獲得した。

事実上、現在のパレスチナ人の有権者が選挙によって選んだ政府である。

ヨルダンから越境闘争を続けたことで支持を得ていたアラファトを指導者としていた政党がファタハである。PLO(パレスチナ解放機構)の中心的な政党となっていた。アラファト氏の死去後、アッバース氏が議長を務める。

1980年代以降、ファタハがパレスチナ人民衆の支持を集め始めると、イスラエルは対立勢力であるハマスを支援し、ファタハとハマスの対立を煽動した経緯がある。

そもそもなぜ、パレスチナ人とイスラエル人は対立するのか

対話路線にしろ、強硬路線にしろ、そもそもパレスチナ人とイスラエル人が対立する理由を考えてみよう。

19世紀、現在「イスラエル」と呼ばれる国のある地域は、そもそも「パレスチナ」とよばれていた。当時の写真をみると、アラブ人の街が広がり、アラブ人が生活している様子がみてとれる。もともとこの地域を支配していたオスマン帝国は、宗教に寛容な政策をとっていた。そのため、多数のアラブ人にまざって、ユダヤ人、キリスト教徒、アルメニア人などのさまざまな民族・宗教の人々が共存して生活していた。

白い地域がユダヤ人の地域(イスラエル)緑の地域は、パレスチナ人居住地域だ。もっとも左の地図は1946年のものだ。もともとイスラム教徒の土地だったこの国に、一方的にユダヤ人が押し寄せ、イスラエル国家の独立を宣言、そして2000年時点では最も右の地図のように、パレスチナ人居住地域は極端に制限されたものとなっている。

本当に民主的な選挙をすると、パレスチナ人が勝ってしまう

現在難民化している者も合わせたパレスチナ人総人口は1160万人、パレスチナ自治政府の人口だけでも401万人、イスラエルの人口790万人。

かつて、アラファト氏はパレスチナ人へのイスラエルの帰還と、ユダヤ人もパレスチナ人も含めた民主的な選挙の実施を求めた。いうまでもなく、武力による占領・追放を行わなければイスラエルはユダヤ人国家たりえないのだ。

民族主義とシオニズム

近代資本主義のはじまりとともに社会的に成長していったユダヤ人。ナポレオン戦争以降、ヨーロッパで民族主義の考え方が台頭すると、ユダヤ人もまた「国土」を求め始める。そのとき、選択肢としてあげられた地域の一つが聖書に登場するパレスチナだった。

かつて、イスラエル王国があり、自治を認められていたにも関わらず、ユダヤ自治州は、ローマに対する反乱を繰り返し起こしたためにローマに取り崩された。時のローマは、聖書の世界でのユダヤ人の敵であるペリシテ人の名をとってこの地域を「パレスチナ」と名付けた。

ユダヤ人のパレスチナへの帰還をあくまで正当なものであるとする思想をシオニズムと呼び、シオニズムの活動家をシオニストと呼ぶ。

出典ameblo.jp

1859年にスエズ運河の建設がはじまると、この地域は、商業的にも意味のある地域となっていった。

次第に、シオニズムは商業主義とも親和していく。ヨーロッパ諸国家や資本が、シオニスト達を支援し始めるようになっていった。

スエズ運河ののっとり

1870年の普仏戦争で、ユダヤ人銀行家は、プロイセンとフランスの両方に資金を供給した。

結果的に、ユダヤ人は戦争資金と戦争賠償金の両方を貸し付け、利益を得ることになる。それだけでなく、敗戦で財政難に陥ったフランスは、ユダヤ人銀行家から資金借りた英国政府に完成間もないスエズ運河の権益を売却せざるをえなくなってしまうのである。

こうして、スエズ運河は、イギリスの保有するものとなり、スエズ運河建設によって財政難に陥ったエジプトは、フランスの支援をうけることができず、英国の保護国となってしまう。こうして、資本によるスエズ運河・エジプトののっとりが成立してしまう。以後、ユダヤ人建国の地として、パレスチナの土地が強く狙われるようになっていった。

この経緯は、後のイスラエル建国と中東戦争の遠因となった。

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