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世界に飛び出したくなる旅の名言集!沢木耕太郎「深夜特急」から

深夜特急(著・沢木耕太郎)は長い間バックパッカーの間で読み継がれている旅のバイブルです。作中に出てくる名言をまとめてみました。

更新日: 2014年09月13日

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バックパッカーのバイブル「深夜特急」

インドのデリーから、イギリスのロンドンまでを、バスだけを使って一人旅をするという目的で日本を飛び出した主人公「私」の物語であり、筆者自身の旅行体験に基づいている。
当初は日本からデリーまで直行してしまうつもりだったが、途中2か所のストップオーバーが認められる航空券を手にした私は香港とバンコクを選び・・・、様々な人々と事件に出会いながらロンドンを目指す。

<さて、これからどうしよう……> 
 そう思った瞬間、ふっと体が軽くなったような気がした。
 今日一日、予定は一切なかった。せねばならぬ仕事もなければ、人に会う約束もない。すべてが自由だった。そのことは妙に手応えのない頼りなさを感じさせなくもなかったが、それ以上に、自分が縛られている何かから解き放たれていくという快感の方が強かった。今日だけでなく、これから毎日、朝起きれば、さてこれからどうしよう、と考えて決めることができるのだ。それだけでも旅に出てきた甲斐があるように思えた。

香港の街の匂いが私の皮膚に沁みつき、街の空気に私の体熱が溶けていく。街頭で華字新聞を買い、小脇に抱えて歩いていると、香港のオジサンやオバサンに呼び止められて、道を訊かれるようになった。黙っているかぎり、誰も私のことを異国人とは見なさなくなる。異国にありながら、異国の人から特別の関心を示されない。こちらは好奇の眼で眺めているが、向こうからは少しも見られない。それは、自分が一種の透明人間になっていくような快感があった。

私は旅に出て以来、ことあるごとに「金がない」と言いつづけてきたような気がする。だが、私には少なくとも千数百ドルの現金があった。これから先の長い旅を思えば大した金ではないが、この国の普通の人々にとっては大金というに値する額であるかもしれない。私は決して「金がない」などと大見得を切れる筋合いの者ではなかったのだ。

便所で手が使えるようになった時、またひとつ自分が自由になれたような気がした。
 ガヤの駅前では野宿ができた。ブッダガヤの村の食堂ではスプーンやホークを使わず三本の指で食べられるようになった。そしてこのバグァでは便所で紙を使わなくてもすむようになった。次第に物から解き放たれていく。それが快かった。

ヒッピーたちが放っている饐えた臭いとは、長く旅をしていることからくる無責任さから生じます。彼はただ通過するだけの人です。今日この国にいても明日にはもう隣の国に入ってしまうのです。どの国にも、人々にも、まったく責任を負わないで日を送ることができてしまいます。しかし、もちろんそれは旅の恥は掻き捨てといった類の無責任さとは違います。その無責任さの裏側には深い虚無の穴が空いているのです。深い虚無、それは場合によっては自分自身の命をすら無関心にさせてしまうほどの虚無です。

あるいは、彼らも人生における執行猶予の時間が欲しくて旅に出たのかもしれない。だが、旅に出たからといって何かが見つかると決まったものでもない。まして、帰ってからのことなど予測できるはずもない。わからない、それ以外に答えられるはずがなかったのだ。
 そして、その状況は私にしても大して変わらないものだった。わからない。すべてがわからない。しかし人には、わからないからこそ出ていくという場合もあるはずなのだ。少なくとも、私が日本を出てきたことのなかには、何かが決まり、決められてしまうことへの恐怖ばかりでなく、不分明な自分の未来に躙り寄っていこうという勇気も、ほんの僅かながらあったのではないかという気がするのだ……。

思いきり手足が伸せる幸せを味わいながら、甲板に坐ってチャイを飲み、河を渡る風に吹かれていると、カトマンズからの30時間に及ぶ強行軍が、もうすでに楽しかったものと思えてきそうになる。なんと心地よいのだろう。その気持を言表わしたいのだが、どうしても適切な言葉が見あたらない。
すると、放心したような表情で空を眺めていたアランがぽつりと言う。
"Breeze is nice"
うまいなあ、と思う。

私にはひとつの怖れがあった。旅を続けていくにしたがって、それはしだいに大きくなっていった。その怖れとは、言葉にすれば、自分はいま旅という長いトンネルに入ってしまっているのではないか、そしてそのトンネルをいつまでも抜け切ることができないのではないか、というものだった。数カ月のつもりの旅の予定が、半年になり、一年にもなろうとしていた。あるいは二年になるのか、三年になるか、この先どれほどかかるか自分自身でもわからなくなっていた。やがて終ったとしても、旅というトンネルの向こうにあるものと、果してうまく折り合うことができるかどうか、自信がなかった。旅の日々の、ペルシャの秋の空のように透明で空虚な生活に比べれば、その向こうにあるものがはるかに真っ当なものであることはよくわかっていた。だが、私は、もう、それらのものと折り合うことが不可能になっているのではないだろうか。

旅がもし本当に人生に似ているものなら、旅には旅の生涯というものがあるのかもしれない。人の一生に幼年期があり、少年期があり、青年期があり、壮年期があり、老年期があるように、長い旅にもそれに似た移り変わりがあるのかもしれない。私の旅はたぶん青年期を終えつつあるのだ。何を経験しても新鮮で、どんな些細なことでも心を震わせていた時期はすでに終わっていたのだ。

私の旅がいま壮年期に入っているのか、すでに老年期に入っているのかはわからない。しかし、いずれにしても、やがてこの旅にも終わりがくる。その終わりがどのようなものになるのか。果たして、ロンドンで《ワレ到着セリ》と電報を打てば終わるものなのだろうか。あるいは、期日もルートも決まっていないこのような旅においては、どのように旅を終わらせるか、その汐どきを自分で見つけなくてはならないのだろうか……。
 この時、私は初めて、旅の終わりをどのようにするかを考えるようになったといえるのかもしれなかった。

もし、この本を読んで旅に出たくなった人がいたら、そう、私も友情をもってささやかな挨拶を送りたい。
恐れずに。 しかし、気をつけて。

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KeitaroKonishiさん