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役の小角と肩をならべるほどの大修験者、念動力、瞬間移動、病気平癒などの霊験を示した。越智山での修行中「越の大徳」と呼ばれ、生き仏と崇敬されたが後に白山に入り白山修験道の祖となる。

弘法大師空海は、密教史上最大の天才宗教家である。山岳修行者で雑密を修して後、30歳で入唐、真言密教の奥義を恐るべき早さで身に着け、2年あまりで帰国する。密教の正統を日本にもたらし、高野山金剛峰寺をひらいた。

学芸百般に通じ、書家、詩人、教育者、土木技術者としても超一流であった。多岐に渡る、空海の活躍は他に類をみない。

また、瞑想中に金星を飲んだ。龍神を使って雨を降らしたなど。その霊験を讃える伝説が日本全国に伝えられている。

明治時代の政界のかげで活躍した呪術師である。彼は、一時期は山形有朋(やまがたありとも)などの政治家の引き立てをうけ、多くの予言を行った。

吉次郎は、岐阜県岩村町の寒窓寺(かんそうじ)という寺の小僧だった。そして、山伏の修行をつみ、呪力を身につけた。五穀を断ち、体力限界の荒行を繰り返したのである。

その後、各地を巡りさまざまな術を見せて人々をおどろかせた。やがて、吉次郎の評判が口コミで広がり、鉱山開発を志す山師たちが、とくに熱心に彼の助言を求めやってきた。吉三郎は地図を出して、その一点を指してみせた。予言ははすれることも多かったが、何度かは彼の示す地点で鉱山がみつかった。

徳川家康に仕えた高僧である。彼はさまざまな呪術に通じていた上に、幕府随一の知恵者とまで言われた。

天海は法力を用いて豊臣秀吉滅亡をを祈り、さらに家康の頼みによって、江戸の町づくりをしたという。

また、徳川秀忠と家光からも重用され、亡くなったのは、寛永20年(1643年)。かなりの長寿だったらしい。

神龍院梵舜(しんりゅういんぼんしゅん)

豊臣家に仕えた梵舜(ぼんしゅん)という人物。彼は、神道家のようでもあり、密教僧のようでもある。正体のわからない人物であった。梵舜は、京都の吉田神社の神官の家である吉田家の出であった。吉田家は室町時代に吉田神道を起こし、天皇の絶対性を説いていた。

梵舜は、はじめ天皇家側近の神道家として活動。また、「古事記」の校底本を後陽成(ごようぜい)天皇に献上するなど文化的な活動にも力を入れていた。彼の評判を聞いた豊臣秀頼の側近たちが、梵舜の呪力で秀吉亡き後の豊臣家を立てなおそうとした。

豊臣秀頼の側近たちは、梵舜に徳川家康の呪殺を頼んだ。しかし、もともと学者であった梵舜の呪力は効力を発揮しなかった。

文観(もんかん)

文観は、鎌倉時代末期に出た強い呪力をもつ怪僧である。彼は身分の低い家の出であるが、仏門に入り学問にいそしんだおかげで名を知られるようになった。当時、大寺院の僧侶は立川流を軽くみていたが、文観は男女の交わりを中心とする立川流の修法によって、強い呪力を得たという。

そのころ、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒し、天皇親政を復活させようともくろんでいた。天皇は武士たちを味方につけ、様々な呪術で幕府を滅亡させようとした。文観などの評判のよい僧侶を呼びよせては呪法を行わせていた。

それを知った幕府は、文観を硫黄島に流してしまった。天皇の倒幕が成ったのちに都に戻され、僧正の地位を与えられた。それからしばらく文観の絶頂期が続いた。しかしその後、室町幕府の弾圧により、立川流は滅んでしまう。

仁寛(にんかん)

鎌倉時代の東国に、立川流という宗派が流行した。それは、人の骸骨を祀り、その間で男女が乱交を行う儀式だ。この立川流というのは、真言宗の流れをひく形でうまれた。平安時代末期の京都で活躍した仁寛(にんかん)という高僧が、その開祖である。彼は、肉食妻帯し、男女の交わりが幸福のもとになると考え、陰陽師の呪術をとり入れ新しい教えを生み出した。男女の交合が、人々の呪力を高めるというのだ。

都で覚えた真言密教の呪術や、新しく身につけた陰陽道の呪術で人々の病気をなおしたり、さまざまな予言をした。おかげで、仁寛をしたう信者が増え、立川流は心のよりどころを求める人の間に爆発的に広がっていった。

成尊は、とくに雨乞いに長じた僧侶として知られている。密教の雨乞いには、何日にもわたって真言を唱えて護摩をたく大がかりな修法、請雨教法(せいうきょうほう)が使われる。

成尊は、身分の低い生まれであったが人一倍熱心な修行によって仁海(にんかい)に引き立てられ、おもに東寺で活躍し、何度も朝廷に呼ばれ雨乞いをした。

安陪晴明の術にやぶれた道魔法師。彼は密教の呪術を身につけ、呪いを物に付することによって人を殺すわざを覚えた。

道摩法師が藤原顕光(あきみつ)の命で藤原道長に妖術をしかけるが、道長の犬と晴明に見破られ、本国播磨国に追放されたと伝えられてる。

安陪晴明(あべのせいめい)と呪術の腕をきそった話も多く伝えられている。彼の名前が世に多く知られていくにつれて、晴明を負かすことができれば、上流貴族にとり入れて出世しようとする野心家が続出してきたのだ。

陰陽道をひらいた賀茂忠行(かものただゆき)には、安陪晴明(あべのせいめい)というすぐれた弟子がいた。加茂は晴明を実の子同様にかわいがり、自分の知る秘伝をすべて授けた。その後、強い呪術を身につけ晴明は人々に恐れられたという。

賀茂忠行(かもただゆき)

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