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戦国武将「高山右近」とは? ローマ法王も認めるキリシタン大名

キリシタン大名。高山右近(たかやまうこん)※画像はNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」(ぐんしかんべい・ぐんしかんべえ)の高山右近(ジャニーズ・生田斗真・いくたとうま) 6/22 高山右近を「福者」認定へ - ローマ法王庁(バチカン)

更新日: 2017年04月16日

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hogehogemanさん

高山右近を「福者」認定へ - ローマ法王庁

江戸時代に幕府の禁教令で国外追放となり、1615年に死亡したキリシタン大名、高山右近について、ローマ法王庁(バチカン)は22日までに、カトリックで最高の崇敬の対象とされる「聖人」となる前段階の「福者」に認定する手続きを進めることを了承した。バチカン関係筋が明らかにした。
 枢機卿らによる会議で認定を決定し、法王フランシスコの承認を経た上で、年内か来年初めにも正式に発表される見通し。福者認定の儀式「列福式」は来年日本で行われる予定という。

戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。キリシタン大名として知られる。 父は摂津国人高山友照、摂津国人の中川清秀は従兄弟とされる。

軍師官兵衛 高山右近 生田斗真

高山右近とは

高山右近は、1552年、摂津の国高山(現在の大阪府豊能郡)に生まれました。6歳から大和の国 沢城(現在の奈良県宇陀郡榛原町)に住み、12歳のときに父飛騨守(洗礼名ダリオ)の影響で洗礼を受け(洗礼名ユスト)、その後高山親子は芥川城を経て、1570年頃高槻城に入り、1573年父飛騨守が城主となり、同年続いて右近が21歳で高槻城主となりました。

天正6年(1578年)、村重が信長に反旗を翻し、高山家もどっちに付くか城内で分かれたが、右近は信長の下へ出頭し、高山家とその領地は安堵された。
本能寺の変後では羽柴秀吉につき、賤ヶ岳の戦いで守勢で苦戦を強いられ、小牧・長久手や四国などの戦いにも参戦。

村重=荒木村重

信長の死後秀吉もしばらくはキリシタン保護を継続、右近の影響で牧村政治・蒲生氏郷・黒田孝高など秀吉の側近の多くが入信し、幼児洗礼の小西行長が信仰に目覚めた。1585年、右近は明石6万石に転封、明石教会を建設しました。
しかし、1587年、秀吉は突如バテレン追放令を出し、右近にも棄教を迫ったが、右近は「現世においてはいかなる立場に置かれようと、キリシタンをやめはしない。霊魂の救済のためには、たとえ乞食となり、司祭たちのように追放に処せられようとも、なんら悔いはない」と答えたため、明石の領土を剥奪され、追放され、流浪の身となりました。

小西行長や前田利家の庇護を受け、小田原城攻めでは前田勢に従軍し、関ヶ原の戦いでは東軍に与した。
江戸時代、加賀で暮らしていた右近だったが、慶長19年(1614年)に徳川家康のキリスト禁教令を受け、加賀を去って内藤如安とともにフィリピンのマニラへ向け国外退去した。現地ではスペイン人のフィリピン総督であるファン・デ・シルバ達から厚い歓迎を受けたが船旅の疲労や慣れない気候の為、間も無く病気に罹患して慶長20年1月8日(1615年2月4日)に客死した。享年64歳。

マニラ市により葬儀が行われ、イエズス会聖堂に葬られた。いま、マニラの日比友好公園には、高槻城跡公園と同じ高山右近像が立っています。

ユスト 高山右近
日本のキリシタン指導者、高山右近はこの地
プラザデラオに最初の日本人居留地を定めた。
彼はキリシタン信仰の故に追放をうけ
1614年12月8日、各修道会の神父と宣教師たち
並びに約100名の日本人キリシタンと共に
ルソンに向け長崎を出帆した。
12月21日、マニラに到着した一行は
貴国民から友愛にみちた歓迎をうけ
同信の愛の絆のもとに日々を過した。
かくして彼は比日両国民の深い友情の基を築いた
右近は1615年2月3日、マニラでその生涯を閉じた。
行年63歳

出典ameblo.jp

へうげもの に登場する高山右近

軍師官兵衛 高山右近 生田斗真

生田斗真・ジャニーズ事務所
軍師官兵衛で高山右近役

参考リンク 軍師官兵衛・他

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