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ユダヤ教のはじまり

ユダヤ教に開祖は存在せず、BC19世紀ごろアブラハムという男が神の声を聞き、カナンの地(イスラエル、パレスチナに当たる)に行きます。カナンの地は、唯一神・ヤハウェが、アブラハムとその子孫に約束した土地です。

紀元前1260年ごろ、エジプトで奴隷として虐げられていた、ユダヤの民を率いて脱出したのが、モーセです。
モーセは、ユダヤの民をエジプトから救い出し、約束の地・カナン(現在のイスラエル、パレスチナ)へ導きます。シナイ山では、神とイスラエル人との民族的契約を結ぶという重要な役割を果たすのです。これは「十戒」と呼ばれます。

ユダヤの部族を統一し、初めて王となったのが「ダビデ」である。エルサレムを首都とし、近隣諸国と友好関係を結んだ。ダビデの息子ソロモンのころには栄華を極める。

BC928 イスラエル統一王国はイスラエル王国とユダ王国に分裂。それぞれの国がアッシリアと新バビロニアに滅ぼされる。このとき壊された神殿の一部が「嘆きの壁」です。

ユダ王国の多くの人々がバビロンに連行される。(バビロン捕囚)捕囚されたユダ王国の人々は故郷を忘れず、エルサレムを想い続けました。この出来事がユダヤ教成立に大きな影響を与えることになります。

バビロン捕囚からオスマン帝国時代まで

ペルシア王により捕囚されたユダヤ人は祖国復帰がかなう。
BC63 エルサレム、ローマの支配下に
BC7~BC4頃? イエスの誕生
395 ローマ帝国が西ローマ帝国と東ローマ帝国(=ビザンツ帝国)に分裂

638 イスラム教徒がエルサレムを占領、無血開城であった。
691 岩のドーム完成
715頃 アル・アクサー・モスク完成

イスラムはユダヤ教、キリスト教に寛大であったため、エルサレムは国際都市として発展した。

イスラム教の第3の聖地であり、「神殿の丘」と呼ばれる聖域となっている。現在はイスラム教徒の管理下にあるが、南西の壁の外側の一部だけが「嘆きの壁」としてユダヤ教徒の管理下にある。

ウマイヤ朝時代に創建されたモスクである。銀のドームとも呼ばれる。立地はイスラエル領内であるが、管理はヨルダン宗教省がワクフとして行っている。また、ヨルダンは1924年、1964年、1994年とモスクの修復作業を施している

1099 十字軍、エルサレムを攻略。キリスト教の「エルサレム王国」を建国
ユダヤ教徒やイスラム教徒、カトリック以外のキリスト教徒の大規模殺戮が行われる。
岩のドームをキリスト教会にしてしまう。
アル・アクサー・モスクを最初はエルサレム国王の王宮に、後にテンプル騎士団の本部に変更。

1187 サラディン、エルサレムをイスラム教徒の手に奪還
ユダヤ教徒やキリスト教徒を寛大に扱う。キリスト教徒巡礼者の自由を保障。
ユダヤ人コミュニティも復活。エルサレムに各宗派コミュニティ毎の棲み分けができはじめる。

イスラム教は他宗教にはけっこう寛容です。

1517 オスマン帝国がエルサレムを支配下に

第一次世界大戦イギリスの3枚舌外交

三枚舌外交(さんまいじたがいこう)とはイギリスの第一次世界大戦後の中東問題をめぐる外交政策のこと。

①アラブ諸国と、②フランス、ロシアと、③ユダヤ人と「オスマントルコを倒したらパレスチナの土地をあげるよ」という約束をしてしまう。一応、約束した土地はかぶらないようにしていたらしいが、後にアラブ諸国の怒りを買い、現在まで続く火種を作ったといっても過言ではない。

1枚目の舌
1915 フサイン=マクマホン協定(イギリスが、オスマン帝国の支配下にあったアラブ地域の独立と、アラブ人のパレスチナでの居住を認めた協定。)

オスマントルコを裏切ってイギリスについてくれたら、イギリスが勝ったときにパレスチナに住んでいいよ!と約束する。

2枚目の舌
1916 サイクス・ピコ協定(イギリス、フランス、ロシアの間で結ばれたオスマン帝国領の分割を約した秘密協定。イギリスの中東専門家マーク・サイクス(英語版) (Mark Sykes) とフランスの外交官フランソワ・ジョルジュ=ピコによって原案が作成され、この名がついた。)

オスマントルコを倒したらみんなで分けようね、という協定。

3枚目の舌
1917 バルフォア宣言(イギリス外相がユダヤ人有力者ロスチャイルド卿にあてた書簡)

「イギリス政府はパレスチナにナショナルホームを設立することを約束し、その目的達成のため最善の努力を行う」とイギリス政府が約束する。だからお金援助してね♪ということ。

第一次世界大戦からイスラエル独立まではイギリスの植民地となる

この戦いで、オスマン軍はイギリス軍に敗れ、パレスチナ及びシリアはイギリス軍により占領される。パレスチナのあたりはイギリス委任統治領パレスチナとなり、実質イギリスの植民地となる。

19世紀末からシオニズムに基づくヨーロッパからのユダヤ人移住がパレスチナ地域にふえており、イギリスの統治時代にはいっそう顕著となる。
1920年から1945年の間に、主に東欧からの367,845人のユダヤ人と、33,304人の非ユダヤ人がパレスチナに移入している。

1930年代初頭からは、ナチス政権の成立と権力掌握にともなってドイツから多数のユダヤ人が(不法移民も含めて)一気に流入した。

イギリスの委任統治の間もユダヤ人とアラブ人の間にいさかいがおこる。

1929 8月、「嘆きの壁」事件。ユダヤ教徒、イスラム教徒の対立で双方に使者約300人。
1936 パレスチナ・アラブ大反乱「アラブの大蜂起」
1946 7月22日、ユダヤ人過激派組織「イルグン・ツバイ・レウミ」(指導者はベギン(のちのイスラエル首相、ノーベル平和賞をとる))が英委任統治政府の主要機関の入る建物を爆破。約100人の死者

1947 2月、イギリスはパレスチナの委任統治を放棄すると宣言し、国連がパレスチナ分割決議案採択する。当時の全人口のうち7割がアラブ人であったが、アラブ人に与えられた土地は45%だった。

ユダヤ人は3割しかいなかったのに、55%の土地を得る。
さらにユダヤ人に与えられた土地は水資源があって農耕などに向いている場所だったのに対し、 長年このへんに住んできたパレスチナ人には、ほとんど砂漠に近い領域しか認められなかった。

国連はユダヤの肩を持ったといわれても仕方がない。そこにはアメリカの強烈な後押しがあったといわれます。 とくに大統領トルーマンの意図が強く働いていました。

1948年には大統領選挙が待っていました。アメリカに住んでいるユダヤ系アメリカ人の支持なのです。 当時のアメリカには、約600万人のユダヤ系アメリカ人がいました。 人口比でいうと3%未満のマイノリティーに過ぎないのですが、このユダヤ系アメリカ人には、 政界・財界・マスコミ、あるいは学界で活躍している人たちがたくさんいました。

1948年イスラエル独立宣言

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