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画鬼と呼ばれた天才絵師、河鍋暁斎の絵にぶったまげる

激動の幕末〜明治時代をその圧倒的な画力で生き抜いた天才絵師、河鍋暁斎(かわなべ・きょうさい)。日本が誇る稀代のクリエイターの驚愕の絵画と人生について。

更新日: 2015年02月11日

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反骨の絵師、河鍋暁斎という芸術家

1831年5月18日 - 1889年4月26日
幕末から明治にかけて活躍した絵師。

幕末・明治の動乱期、強烈な個性を前面に押し出し、日本画の表現領域を広げ続けた桁外れの絵師

群を抜いた筆力・写生力で海外でも高く評価されている天才絵師です。

明治3年(1870年)に筆禍事件で捕えられたこともあるほどの反骨精神の持ち主で、多くの戯画や風刺画を残している

風刺戯画の名手として鳴らしていた客のリクエストに応じてその場で絵を描き上げる書画会で、暁斎は筆が滑って筆禍事件を起して投獄、鞭打ち50回の刑に処されてしまいます。これをきっかけに、それまでの号「狂斎」から「暁斎」へと改名。

名匠が鍛え上げた名鏡が、「洋服を着た」あらゆる悪鬼羅刹を退散させている。
急速に西洋化する当時を風刺した作品。

狩野派の流れを受けているが、他の流派・画法も貪欲に取り入れ、自らを「画鬼」とも号している

江戸時代のメインストリームであった狩野派の技法をマスターしていながら、浮世絵などの技法にも精通。

その描く絵のジャンルが極めて広く、浮世絵、錦絵、大和絵、戯画、幽霊画、春画などに足跡を残しています

あらゆるジャンルの画を器用にこなしました。

その群を抜いた画力に惹かれた弟子の中には、かの鹿鳴館の設計者コンドルがいた

明治以後の日本建築界の基礎を築いたジョサイア・コンドルを弟子に持ち、日本画の技法を教えると同時に、深い友情を築いていました。

海外では高い人気を誇りながら、国内では画業が忘れられかけていた絵師

狩野派的なオーソドックスな絵をはじめとして、幽霊画、戯画、錦絵、紙袋のデザインまで何でもこなせる絵師で、日本の美術史からは奇人変人扱いでほとんど忘れかけられていたとのこと。

新富座上演「漂流奇譚西洋劇」の宣伝のため明治12年に描かれた絹張り行灯絵。

略伝

3歳で初めてカエルを描き、7歳で浮世絵師・国芳に入門

1831年(天保2)、現在の茨城県古河市に藩士・河鍋記右衛門の次男として誕生し、数え年2歳で家族ともども江戸に移り住みます。絵が格別に好きな幼少時代で、他の遊びや菓子を食べるのも忘れて絵を眺めたといいます。
わずか7歳で浮世絵師の歌川国芳に入門し、浮世絵を学びました。

3歳で初めて蛙の絵を描いてから、この小動物は暁斎にとって生涯のテーマとなった。
東京・台東区の正行院にある暁斎の墓は、なんと蛙の形をしています。

天保10年(1839年)5月、梅雨による出水時に神田川で拾った生首を写生し、周囲を吃驚させたという「生首の写生」の伝説を残す

とにかく珍しいものは何でも写生したようです。

国芳の侠気と品行を心配した父は、間もなく周三郎を国芳の元から駿河台狩野派絵師・前村洞和愛徳の門に替えた

天保11年(1840年)、自由人すぎた国芳から悪影響を受けることを心配した父により、国芳のもとを離れ狩野派絵師に学ぶことに。
前村洞和愛徳は、周三郎(暁斎の幼名)の画才を見込んで「画鬼」と呼び、可愛がりました。

異例の若さといわれる19歳の嘉永2年(1847年)、「洞郁陳之」(とういく・のりゆき)の号を授かり、狩野派の修業を終えた

しかし幕末明治という時代にあって、オーソドックスな狩野派の絵師の多くは大スポンサーであった幕府が倒れたことにより路頭に迷ってしまいます。

ちょうど脂の乗ってきた暁斎は、求められるものは何でも描いた。あれも描いてこれも描いてという暁斎の才能は、この時代の吸引力に沿って加速していった

国芳に学んだ浮世絵の基礎や、狩野派で磨いた写生力などを発揮し、他の多くの狩野派絵師が仕事に苦しむ中、暁斎の才能は徐々に世の中に知れ渡ることに。

安政5年(1858年)、狩野派を離れて「惺々狂斎」と号し浮世絵を描き始め、戯画・風刺画で人気を博した

他にも周麿、酒乱斎雷酔、酔雷坊、惺々庵などの画号を名乗り、明治4年(1871年)以後、号を「暁斎」と改めます。

1889 明治22 59歳
4月26日、胃がんのため、コンドルらが見守るなかで死去

弟子のジョサイア・コンドルや子供たちが見守るなか、59歳で生涯を絵に捧げた天才絵師はこの世を去りました。

ギャラリー

狩野派の技法を用いた暁斎31歳頃の画。

躍動感溢れる筆致が凄まじい。

囲碁を打ったり、楽器を弾いたりと骸骨たちが楽しそう。

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