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誰が正義!?悲しすぎるチベット問題の歴史

「国際社会」はその時々の情勢によって中国に対する敵対勢力としてチベットの民族主義を利用してきた歴史がある。

更新日: 2018年01月22日

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イギリスは、東インド会社を解散し、1877年にはイギリスのヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国の成立を宣言しました。名実ともに、イギリス政府がインドを統治することとなったのです。

中国を足がかりとしてイギリスはチベット侵略を試みる

ロシアと手を結んだチベット、それを奪い取ろうとした英国

ヒマラヤの小国が次々とイギリスとの不平等条約を結ばされました。チベットのダライ・ラマ13世は、あくまで独立路線をとり、英国との通商を拒絶、イギリスの中国進出を脅威とみなしたロシアからの武器支援を受け入れていきました。

英国は、チベットがロシアの手中に収まることになれば、中央アジアの勢力バランスが英国にとって不利になると考え始めます。

1876年、イギリスは、清とビルマの国境でイギリス駐華公使館員が殺害された事件を口実に圧力をかけ、さらなる不平等条約「芝罘条約」を清に要求。

すでに戦争に負け、英国の圧力を強くうけていた清は、この不平等条約をうけいれました。この中で、清国政府は、「英国探検使節が中国からインドへ、チベット経由で通行することを許可する」と規定します。

チベットに対して政治的権限を持つ中国、中国各地へ宗教的影響力を及ばせるチベットという構図を、イギリスは中国が宗主国、チベットは中国の植民地という都合よい解釈に置き換えて利用したのです。

1880年、白人の探検隊がチベットに侵入、チベット政府の派遣した官吏によって退去させられるという事件が起きた。

清王朝が通行を認めても、チベット政府は知りません。イギリス人の探検隊はチベットから追い出されてしまいます。

英国政府情報員サラト・チャンドラ・ダス、学僧を装いシガツェに来り、ラサその他を旅行(1881-83)し、地図を作成。チベット政府の逮捕令をくぐりぬけて脱出する。同様の事件が頻発し、チベット政府は英国領インドとの国交を疑問視するに至る。

チベット政府は、1885年ようやく、芝罘条約の存在を把握します。清が英国に対してチベット経由で中国とインドの間に遠征隊を送る許可を与えさせられたことを知ったのです。

チベットと、イギリスの対立が始まりました。

さらに条約の捏造を繰り返すイギリス

チベットへの強引な進出を目論む英国

事実上、操り人形となっている清王朝を利用し、英国は形式上の条約を乱発し、チベット進出の既成事実を作っていきました。

ネパールとブータンのあいだに位置したシッキム王国は、現在ではインドの州となっています。

歴史的な経緯から、シッキムにはチベット人の亡命政権がありました。チベットはシッキムを属国とし、チベットを属国としていた清朝もシッキムを自らの属国とみなしていました。

しかし、歴史的にチベットと中国の間には大きな問題は起きていませんでした。あくまで政治権力の中国皇帝に対し、法王としてのチベットだったためです。

イギリスはこの状況に目をつけ悪用します。

1890年 シッキム・チベット条約

1887年、チベット軍がシッキムへ侵入したことを口実にイギリスが介入し、占領しました。このときイギリスは、シッキムは清の領土であり、チベットの侵入は認められないという立場をとったのです。これは、中国をチベットとみなしたイギリスに反発したチベットに対する揚げ足取りのような対応でした。

合法の政府はイギリスの言うことを聞く清、チベット政府の存在は無視

英国はチベット政府の存在を無視し、チベット政府を参加させないまま、西洋的な考え方ではチベットの宗主であった清国との間で条約を締結しました。清はシッキムをイギリスの保護領とすることを承認させられ、チベット・シッキム間の国境などがさだめられることになりました。かくして、英国は、チベットが中国の属国であるという既成事実を作り上げたのです。

イギリスは、それまでの慣行による朝献関係とは全く異質な、宗主国と属国という関係を名目上作った。

1893年、さらに清はイギリス領インドとシッキムの通商を認め、シッキムは清の一部という名目を維持しながら、事実上イギリス領インドの経済圏にシッキムを取り込みました。こうして、シッキムはいつの間にか英国領インド帝国に組み込まれてしまいます。チベットの反発に対する英国の最初の回答でした。

1903年、英国のチベット侵攻

英国は、シッキムを足がかりにチベット全体ののっとりを企てた。

イギリスはチベットによるシッキム・チベット条約違反を口実に、首都ラサへと進出することを決定します。シッキム・チベット条約の当事者ではないチベット政府にとっては寝耳に水の状態で、イギリスがチベットへと一方的に侵攻しました。

チベット国境から100キロほど行ったギャンツェへの道中、探検隊は地元のチベット人と対立し、民兵が600人から700人のチベット住民を虐殺する惨事へと発展しました。

イギリス人によるチベット人の大量虐殺

死傷者の数には諸説あり、イギリス側の犠牲者5人に対して5000人のチベット人が殺されたとする推計もあります。

イギリスとの紛争が続いていた1904年、ダライラマ13世は、ラサを脱出。ロシアの援助を期待してモンゴルへと向かいます。

ロシア政府は、モンゴルや北京駐在の外交官を派遣し、接触を試みました。

ダライラマ13世の向かったモンゴルには、チベット人ジェブツンダンバ・ホトグト8世が居ました。

彼は、ダライ・ラマ12世によって、ジェブツンダンバ・ホトグト8世と認定、清朝皇帝に承認される、という経歴をもっていた人物で後にモンゴルが独立すると皇帝ボグド・ハーンとなった人物です。

この当時、チベットだけでなくモンゴルも、中国との朝献関係を維持していました。ダライラマ13世は彼を足がかりにいわゆるロビー活動を展開し始めたのです。

英国の侵略に対するロシアの抗議

イギリスのチベット進出は、ロシアの反発を買う

ロシアはイギリス軍の侵略行為に抗議を行い、10月に条約の大幅な撤回をさせました。ダライラマのロシアとの接触もあり、イギリスにとってロシアの脅威は無視できないものになっていました。イギリスは日本を利用した対ロシアのもっと大きな一手を打っていたのです。

チベット攻略を進める一方、イギリスが日本に武器を供給し、日露戦争を始めさせていました。

そのため、ロシアはチベットを軍事支援することができない状況にありました。英国は、結果的にチベットに対するロシアの干渉をかわすことができたのです。

イギリスの二枚舌外交

1904年英国とチベットは、ラサ条約を締結

敗北したチベットに対し、イギリス軍は莫大な賠償金を課し、チベットでのイギリス以外の外国勢力駐留の禁止、鉄道と鉱山の利権をイギリスに与える条約を結ばせました。これは、事実上イギリスがチベットの経済的支配権を獲得することを意味しました。

英国によるチベットの経済的制圧

ラサ条約では一個の国家を自認するチベット政府に対して、清とチベットの関係に触れませんでした。一方で、清に対しては、チベットの交渉開始にあたって、チベットとの外交関係樹立を清中央政府に通知しませんでした。

イギリスは、中国とチベットに対して表向きは全く異なる立場を伝えることになりました。

「チベットの宗主権を持つ中国」の立場を利用してシッキム・チベット条約を締結、イギリスはシッキム・チベット条約に違反したとしてチベットを侵攻。

チベットに対しては「チベットの宗主権を持つ中国」の存在は無視してチベットを独立国として中国政府とは別に条約交渉させる

イギリスがチベット問題を泥沼に引きずり込んだ二枚舌外交でした。こうして、チベット内外に、チベットの地位についての二つの解釈が存在する土壌が作られたのです。

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