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「弱気は最大の敵」 津田恒実の生涯

その生き方はすべての人々を感動させます。

更新日: 2015年03月31日

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tettyan1983さん

その訃報は突然だった・・・

1982年(昭57)新人王、名ストッパーとして活躍した元広島投手の津田恒美(つだ・つねみ)さんが20日午後2時45分、脳腫瘍(しゅよう)のため福岡市中央区の済生会福岡総合病院で死去した。

わずか32年の生涯でした・・・。

くしくも、その日はオールスター戦が開催されていた。

津田さんが5回も出場し快速球を披露したオールスター第1戦の当日、2年余りの長い闘病生活にピリオドを打った。

1993年7月20日。夏の暑い日だった。 
 忘れられることのない炎のストッパー。そして32歳という若さで病魔に襲われ、この世を去らざるを得なくなった悲運の大投手……。
 愛すべき男だった。

突然すぎる訃報に球界は悲しみに包まれました。

短くも太かった野球人生

山口県都濃郡南陽町(現:周南市)の山間部・和田地区出身。山口県立南陽工業高等学校では、1年時からエース投手として活躍していた。1978年の第50回選抜高等学校野球大会に出場してベスト8の成績を残し、同年の第60回全国高等学校野球選手権大会では2回戦まで駒を進めた。

「弱気は最大の敵」はここで生まれた

夏の甲子園の第60回大会2回戦、対天理戦で打たれたソロ本塁打で0-1と惜敗して以来の座右の銘は「弱気は最大の敵」。直球勝負をせず、カーブでかわそうとしたボールを本塁打されたことを悔やんでの教訓だった。

高校時代には、監督から精神安定剤と偽ったメリケン粉を渡されたこともあったという

強気のピッチングの裏には精神的なメンタルの弱さを克服するための苦悩がありました。

社会人の協和発酵を経て、広島カープへ

津田は、高3のドラフトでも、上位指名候補だったが、「3年たったらプロに行く」と地元の協和発酵に入社する。1年目の日本選手権でベスト4進出に貢献。3年目には電電中国の補強選手として都市対抗に出場し、その後の日本選手権でもベスト8進出の原動力となった。そして、その年の秋のドラフトで、希望球団の広島に1位指名される。

社会人時代でも大活躍でした。

1981年のドラフト会議で、相思相愛だった広島カープに1位で指名され、当時協和発酵の津田恒実(当時恒美)さんはガッツポーズ。巨人が大人気の時代に、「巨人じゃなくてよかった」と喜んだ

球団史上初の新人王に輝くなどプロ一年目は大活躍でした。

血行障害 「津田恒美」から「津田恒実」へ

1983年も先発として9勝をあげるものの右肩三頭筋を傷めてシーズン途中に戦線離脱。津田はその後も右手中指の血行障害やルーズショルダーに悩まされました。津田は根本的な怪我の改善のため右手中指靱帯の摘出手術を受ける一方、心機一転を図るためか「恒美」から「恒実」へ改名。藁にもすがる気持ちだったのかもしれません。

初年度の大活躍で津田投手のプロ野球人生は順風満帆に思われましたが、右肩のルーズショルダーや右手中指の血行障害などが彼のキャリアを蝕んでいきました。

復帰後

血行障害から復帰後は、直球主体のピッチングであった。特に1986年は投げた球種の90%以上がストレートであり、変化球はほとんど投げていない。津田が現役時代に同僚・監督であった山本浩二は津田のストレートを「ホップする直球」と称していた。

ピンチになればなるほど球速が上がっていく傾向があった。1986年の対阪神タイガース戦、9回裏1死満塁同点(4対4)の場面では、2番打者の弘田澄男に143km/h・148 km/h・151 km/hのストレートを投じて3球三振に仕留める。その後の3番打者、当時絶頂期にあったランディ・バースに対しても全て150km/h超のストレートで挑み、3球三振に斬り捨ててピンチを脱した。この試合を実況していた毎日放送アナウンサーの城野昭は「津田、スピード違反!」と叫び、バースは試合後に「ツダはクレイジーだ」というコメントを残している。

津田は自分自身に打ち勝つことが、相手に勝つ唯一の方法だと考えていました。

忍び寄る病魔

津田が森脇に体の異変を訴えたのは'91年の3月だ。森脇は'87年途中に南海('89年より福岡ダイエー)へトレードされていた。平和台球場でのオープン戦を終えた2人は久しぶりに食事をともにした。その席で津田は珍しく弱音を吐いた。
「最近、疲れが取れないんや・・・・・・」

この時すでに手術のできない箇所に脳腫瘍ができていました・・・

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