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会津白虎隊が美化された理由。武士の階級維持の為に行われた会津戦争で苦しんだ農民

日本では、会津白虎隊が戦前から美化されていますが、戊辰戦争が武士の階級維持の為に行われた戦争である事を知っている人は多くありません。農民たちは、重税の為に悲惨な生活をしており、会津藩における武士が特権階級として君臨していました。松平家は、天皇家と結合しています。

更新日: 2017年06月14日

misukiruさん

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会津藩が戊辰戦争を戦った理由

会津藩では、武士階級が特権階級として君臨しており、農民が搾取の対象になるという構図が成立していました。

会津藩は薩長土のような広い視野を持っておらず、世界の現実や日本の将来が見えていなかった。

江戸時代は「士農工商」などの身分制度があり、会津藩士は会津藩の家名断絶にともない、「武士」(会津藩士)の身分を失う

戦争に善 悪は無く容保がうまく立ち回っていれば会津戦争は起き無かったと思われますが、沈みゆく泥舟に最後まで残るという考えも当時の武士の中にはあった思いかも

農民に恨まれていた会津藩

農民の生活は、武士階級と異なって困窮していました。

いたるところで、領民は冷淡な無関心さを装っていた。道のすぐそばの畠で働いていた農民たちでさえも、往年の誉れ高い会津侯(松平容保)が国を出て行くところを振り返って見ようともしなかった。

家並は、私が日本のどこで見たものよりもみすぼらしく、農民も身なりがわるく、小柄で、虚弱な種族であった。会津の地で生産される米は、みな年貢として取り上げられた。

会津藩も領民に苛酷な税金を課していたため、厳しい税や支配によって会津藩に対し憎しみを抱いていた領民の中には、新政府軍が会津藩領の村々から大量の人夫や馬と軍資金を徴発しても、新政府軍を歓迎してこれに応じる者もいた。

重税さらには戦争にまで巻き込まれる形となった領民たちの士気は低く逃走者が後を絶たなかった。意気揚々と鳥羽・伏見の雪辱に燃える会津藩士とは対照的

残念ながら、会津藩政の苛酷さとその腐敗ぶりはどこでも一様に聞かれた。今後十年二十年に返済するという契約で、会津の藩当局が人民に強制した借款についての話がたくさんあった。会津の国の貧しさは極端なものである。

*会津藩の財政は困窮しており、戦争どころではありませんでした。

会津藩に頻発していた民衆蜂起

相次ぐ戦争に農民たちが疲弊して、会津藩に対して不満が高まっていました。

会津戦争直後には領民から同情されなかったどころか政府軍を歓迎した領民が反藩政の一揆を起した。

会津藩軍による組織的搾取だけではなく、兵士個人による略奪も多発した。武器で脅して領民から略奪する会津藩軍兵士達に、領民は手も足も出せなかった。

9月22日(1868年11月6日)、会津藩が明治政府に降伏すると、たちまち藩政崩壊による権力の空白状態に乗じた民衆蜂起が勃発した。

◆会津藩を恨んでいた町人

資産のほとんどを徴発された会津の町人たちに至っては、征服者である新政府軍を「官軍様」と呼び、会津藩士を「会賊」と呼びすてにした。

会津の財政を圧迫した「京都守護職」

会津藩が京都守護職に就いたのですが、京都は遠かったので、膨大な予算の出費が発生して、会津藩の財政を圧迫しました。

京都守護職就任に伴う臨時支出は約22万両に達していた。当時の会津藩の会津・江戸の年間経常支出は約12万両であったから、この約22万両の臨時支出は、まさに、会津藩にとっては
亡国的支出であった。

薩摩、長州という改革派の志士達が京都で活躍を始めた頃、藩主の松平容保が、「京都守護職」に任じられる。いわば、警察機動隊である。

松平容保は、既に財政破綻していた藩財政には無頓着でした。その為に、本来は戦争どころではありませんでした。

長年の京都守護職と鳥羽伏見の敗戦による多大な出費で、財政破綻していた。会津藩は慢性的な戦費不足から、侵攻した越後各地で、領民から搾取・略奪を始めた。

会津藩は、借金に次ぐ、借金で、なんとか生きていたのである。そこに、トドメを刺したともいえるのが京都守護職拝命であった。

軍事が強いというのは、「負ける戦争をしない」ことに尽きる。越前の松平春嶽(慶永)は、京都守護職にはならなかった。リスクを事前に予想して、回避したのである。

上級武士の白虎隊の悲劇

身分の高い武士たちの子供たちは、良く洗脳されていました。

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misukiruさん

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