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「軍師官兵衛」が活躍した時代、実は大地震が多発していた?

「軍師官兵衛」の黒田官兵衛が活躍した戦国時代、安土桃山~江戸時代前期は南海トラフ地震、三陸地震や内陸地震などの大きい地震が多い地震活動期だったものと推定されます。この時代の地震は津波を伴ったものが多かったようです。

更新日: 2015年04月30日

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pharenaさん

地震活動期

マグニチュード9にも及ぶ東日本大震災が起こったいま、多くの科学者が、いまの日本列島は「地震静寂期」ではなく、大地震が集中的に訪れる「地震活動期」のただ中に突入していることを指摘している。

 この「地震活動期」というものは、過去の日本の歴史のなかでも定期的に訪れている。

安土桃山時代(1573年 - 1603年頃)

本能寺の変 1582年6月21日(天正10年6月2日)

1585年7月31日(天正13年7月5日) 大阪・京都・伊勢で大震。

天正地震 1586年1月18日(天正13年11月29日) 津波あり

天正地震(東海東山道地震、飛騨・美濃・近江地震) - M 7.8〜8.1(それ以上の可能性あり、あるいはM 8クラスの地震が3つ以上同じ日に立て続けに発生した可能性あり)、死者多数。飛騨・越中などで山崩れ多発、白川郷で民家数百軒が埋まる。内ヶ島氏、帰雲城もろとも滅亡。余震が1年以上続く。三河湾と若狭湾という日本海・太平洋両岸での大津波記録が複数あり、複数の巨大地震の同日発生の可能性がある。少なくとも養老断層(愛知県)、阿寺断層(岐阜県)の2つの断層の活動(いずれもM 8クラスか)の可能性が高い。さらに若狭湾に津波をもたらした断層も活動したと考えられ、3つのセグメントでのM 8クラス地震が同日に少なくとも3つ以上発生した可能性が高い。

被害地域の記録が日本海の若狭湾から太平洋の三河湾に及ぶ歴史上例のない大地震であるため、震源域もマグニチュードもはっきりした定説はない。

戦国時代末期の豊臣秀吉による東日本支配が完了していない時期であったため、統治機構の混乱から文献による歴史資料が残り難い時代背景であった。

この時、秀吉は琵琶湖沿岸の坂本城にいた。突如起きた地震のために各地の城や建物は倒壊。激しい揺れに驚いた秀吉は「飛ぶように大坂へ逃げた」と宣教師のルイス・フロイスが書き記している。

琵琶湖対岸の長浜にいた山内一豊の6才の娘や、加賀にいた前田利家の弟など、秀吉と親しい武将たちが家族を失うほどの大きさだった。これまたフロイスの報告では、長浜地区にあった1000戸の集落では、地面が割れて半数の家が倒壊し、半数は火事で焼失したという。

 この記載は近年、琵琶湖の湖底に消えた下坂西千軒遺跡・西浜千軒遺跡の水中考古学調査で確認された。2つの集落は、地震の液状化によって地盤が脆くなり、巨大な地すべりによって村ごと沈んだのである。

震源は現在の岐阜県美濃中西部

震源域
近畿から東海、北陸にかけての広い範囲、現在の福井県、石川県、愛知県、岐阜県、富山県、滋賀県、京都府、奈良県(越中、加賀、越前、飛騨、美濃、尾張、伊勢、近江、若狭、山城、大和)に相当する地域にまたがって甚大な被害を及ぼしたと伝えられる。また阿波でも地割れの被害が生じており、被害の範囲は1891年の濃尾地震(M8.0-8.4)をも上回る広大なものであった。そのことなどからこの地震は複数の断層がほぼ同時に動いたものと推定されている。

被害

飛騨国 - 帰雲城は帰雲山の山崩れによって埋没、城主内ヶ島氏理とその一族は全員死亡し、内ヶ島氏は滅亡した。また、周辺の集落数百戸も同時に埋没の被害に遭い、多くの犠牲者を出すこととなった。白川郷では300戸が倒壊するか飲み込まれた。「顕如上人貝塚御座所日記」に、「十一月二十九日夜4ツ半時、大地震あり」との記述がある。焼岳付近で地震による(?)山崩れ。家屋300余埋没。
美濃国 - 大垣城が全壊焼失した。
越中国 - 木舟城(現在の高岡市の南西)が地震で倒壊、城主の前田秀継夫妻など多数が死亡した。前田秀継は前田利春の子で前田利家の弟である。
尾張国 - 昭和63年(1988年)度に実施された五条川河川改修に伴う清洲城下の発掘調査で、天正大地震による可能性の高い液状化の痕跡が発見されている。天正14年(1586年)に織田信雄によって行われた清洲城の大改修は、この地震が契機だった可能性が高いと考察された。また蟹江城が壊滅した。
伊勢国 - 織田信雄の居城であった長島城は天守が倒壊するなど甚大な被害を受けた。そのため信雄は居城を清州城に移した。
京都 - 東寺の講堂、灌頂院が破損、三十三間堂では仏像600体が倒れた。
郡上八幡 - 奥明方(現郡上市明宝)の水沢上の金山、また集落(当時60-70軒)が一瞬で崩壊し、辺り一面の大池となったといわれる。
琵琶湖 - 下坂浜千軒遺跡(しもさかはませんけんいせき)となる現長浜市の集落が液状化現象により、水没した。秀吉の築いた近江長浜城を山内一豊(妻は見性院)が居城としていたが全壊し、一人娘与祢(よね)姫(数え年6歳)と乳母が圧死した(『一豊公記』)。また家老の乾和信夫妻も死亡した。
若狭湾・伊勢湾での大きな津波被害もあった。

若狭湾及び伊勢湾に津波があったとされる記録がのこる。

『兼見卿記』には丹後、若狭、越前など若狭湾周辺に津波があり、家が流され多くの死者を出したことが記され、『フロイス日本史』にも若狭湾と思われる場所が山ほどの津波に襲われた記録があり、日本海に震源域が伸びていた可能性もある。 他にクラッセ『日本教会史』(1689年。明治時代に翻訳されて『日本西教史』)や『豊鏡』(竹中重治の子の竹中重門著。江戸時代。豊臣秀吉の一代記)、『舜旧記』、『顕如上人貝塚御座所日記』、『イエズス会日本書翰集』などにも、詳しい記述がある。

噴火

『四ツ半時、大地震あり。この時、硫黄山(焼岳)大噴火を起こし、麓中尾村は地形を大きく変貌する。』(顕如上人貝塚御座所日記)。 焼岳が噴火したという口碑がある。

1586年の天正大地震後、近い時期に大地震が複数起こっており、それらの引き金を引いた可能性がある。

九州の名護屋にいた秀吉が伏見城を築くときに1592年(文禄元年)普請を担当した京都所司代前田玄以(げんい)に送った書簡に、「ふしみのふしん、なまつ大事にて候まま」と記されていた。“なまず大事”=城の建築にあたっては地震対策を万全にせよ、という意味であるが、これは1586年の天正地震を念頭に置いたものとみられている。

11月29日、その日帰雲城では和睦成立を祝う宴が開かれ、氏理本人はもちろん、娘婿の東常堯や嫡子の内ヶ島氏行など内ヶ島一族、重臣の主だったものが勢揃いしていた。 深夜に入り天正地震が発生し、帰雲城は帰雲山の山崩れに巻き込まれ完全に埋没。これにより内ヶ島氏は一族郎党一夜にして滅亡したのであった。

天正14年(1586年)7月から同15年(1587年)4月にかけて秀吉の「九州攻め」

大友宗麟の要請による九州征伐では、黒田官兵衛は毛利氏などを含む軍勢の軍監として九州豊前に上陸。宇留津城、香春岳城などを陥落させる。翌年3月に豊臣秀長の日向方面陣営の先鋒を務めて南下し、島津義久の軍勢と戦い、戦勝に貢献している(根白坂の戦い)。戦後は石田三成と共に博多の復興(太閤町割り)を監督している。

安房(現在の千葉県南部)で地震 1590年3月21日(天正18年2月16日)

2mの隆起あり。潮が引いて3キロの干潟が形成された。

秀吉の天下統一

秀吉は天正18年(1590年)に関東へ遠征、後北条氏の本拠小田原城を包囲した。

小田原城は堅城として知られるが、季節的な理由で兵を引く可能性のない包囲軍の前では無力であった。3か月の篭城戦の後に北条氏政・北条氏直父子は降伏した。北条氏政・北条氏照は切腹し、氏直は紀伊の高野山に追放された。小田原城を包囲中に、伊達政宗ら東北の大名も秀吉に恭順の意を示した。これによって、名実ともに秀吉の天下統一事業が完遂された。

後北条氏を下し天下を統一することで秀吉は戦国の世を終わらせた。

1596年 以下の3つは連動型地震の可能性

慶長伊予地震 1596年9月1日(文禄5年閏7月9日)

慶長伊予地震(慶長伊予国地震)- M 7.0、寺社倒壊等。同年同月に発生した一連の内陸地震のさきがけとなる。四国を走る中央構造線断層帯での地震と考えられている。

断層の長さから推定される地震の規模はマグニチュード7前後であるが、被害記録は限られており正確な規模は不明である。

3日後の1596年9月4日に豊予海峡を挟んで対岸の大分で発生した慶長豊後地震と、4日後の1596年9月5日に発生した慶長伏見地震(共にM7.0規模と推定)を合わせて、中央構造線上及び、その周辺断層帯で発生した一連の地震活動の一つとされる。こうした天変地異の多発によって同年中に文禄から慶長へと改元がなされた。

慶長豊後地震 1596年9月4日(文禄5年閏7月12日) 津波あり

慶長豊後地震(大分地震) 豊後国(現在の大分県)で発生した地震である。死者800余人。島の実在自体が未確認であるが、別府湾にあった瓜生島(沖ノ浜(沿岸陸地))と久光島の2島が沈んだと伝えられる。

震源地は現在の大分県の別府湾口で、マグニチュードは6.9~7.8と推定される。別府湾-日出生断層帯東部の別府-島原地溝帯に沿って発生した大陸プレート内地震である。

文禄5年7月から地震が頻発、翌閏7月まで続き、閏7月12日申刻(午後4時)に本震が発生、津波も発生した。津波による流出家屋数千戸、死者708名、高崎山と由布岳の山崩れなどの被害をもたらした。

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