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戊辰戦争の箱館戦争の五稜郭についてまとめ(明治維新)

日本国内の最後の内戦であるとされる戊辰戦争では、北海道の五稜郭が最後の舞台となりました。旧幕府軍である榎本武揚たちが五稜郭に立て籠もって箱館戦争を戦いますが、新政府軍の猛攻にあって敗れてしまった地です。戊辰戦争は、この五稜郭をもって終結します。

更新日: 2018年08月20日

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misukiruさん

◆ 榎本武揚の旧幕府軍が北方へ逃れる 1868年

品川沖を脱走する旧幕府艦隊。左から美賀保丸、長鯨丸、咸臨丸、開陽丸、回天丸

約8万人の幕臣を養うことは困難となり、多くの幕臣が路頭に迷うことを憂いた海軍副総裁の榎本武揚は、蝦夷地に旧幕臣を移住させ、北方の防備と開拓にあたらせようと画策する。

榎本は8月19日、抗戦派の旧幕臣とともに開陽、回天、蟠竜、千代田形、神速丸、美賀保丸、咸臨丸、長鯨丸の8艦から成る旧幕府艦隊を率いて江戸を脱出

◆ 旧幕府軍による五稜郭の占領

1868年10月頃に榎本武揚が率いる旧幕府軍が五稜郭を占領して、蝦夷地仮政権が樹立されます。

1868年( 慶応4年/明治元年)、榎本武揚率いる旧幕府軍が10月26日、五稜郭に無血入城。箱館を占領し、「蝦夷地政権」を樹立していく。

蝦夷地へ上陸した旧幕府脱走軍は, 数手に分かれて五稜郭を目指し,10月26日には箱館府兵が青森口へ逃げて無人の五稜郭を占拠することになりました。

◆ 外国式の城であった「五稜郭」

設計を担当したのは洋式軍学者の武田斐三郎。大砲による戦闘が一般化した後のヨーロッパにおける稜堡式の築城様式を採用し、堡を星型に配置している。

◆ 旧幕府勢力の「開陽丸」の座礁・沈没

開陽丸は、旧幕府勢力にとって最大の武器とも言えるものでしたが、この船を座礁させて失ってしまう事によって、旧幕府勢力が圧倒的不利になります。

開陽丸は江戸大老井伊直弼の意思を継いだ安藤信正(信睦)によってオランダより導入された江戸幕府の軍艦である。オランダで造艦され、1867年(慶応3年)3月25日に横浜へ帰港した。

この「開陽丸」は、幕末にオランダで建造された当時の日本で最強を誇る木造の機帆走軍艦だったが、建造されて僅か1年7ヶ月後の明治元年(1868)箱館を舞台に繰り広げられた戊辰戦争で、江差沖にいた開陽丸は暴風にため座礁、沈没した。

オランダ側は当初、時流からみて鉄製艦を薦めたが、一刻も早く入手を望んだ幕府側は木造を選択する。こうして開陽丸は木造銅貼で造船

旧幕府軍の榎本武揚

生年月日:1836年10月5日
出生地:武蔵国江戸下谷御徒町
没年月日:1908年10月26日
死没地:日本 東京府
出身校:長崎海軍伝習所
前職:幕臣
称号OF-7 - Kaigun Chujo (collar).gif 海軍中将
子爵

19歳の時、箱館奉行・堀利煕の従者として蝦夷地箱館(現北海道函館市)に赴き、樺太探検に参加する。安政3年(1856年)には幕府が新設した長崎海軍伝習所に入所

12月15日、蝦夷地を平定した旧幕府軍は、箱館政権を樹立。総裁は入れ札(選挙)によって決められ、榎本武揚が総裁となった。

◆ 新政府軍の北海道上陸

翌明治2(1869)年春、新政府軍は反撃を開始します。4月9日、乙部に上陸した新政府軍は、三方から箱館に向かって進軍。

箱館奉行所は、外国船からの艦砲射撃を避けて五稜郭に移転したはずですが、五稜郭築造からおよそ10年で、大砲の性能は格段に進化

◆ 巨大な火力同士の戦いへ

五稜郭からの砲撃は全く港湾まで届かなかったのに比べ,軍艦甲鉄の大砲は70ポンド施条砲という約4km以上砲弾が届くような強力なものであったため,五稜郭内の奉行所庁舎の太鼓櫓(たいこやぐら)に正確に命中

5月11日、新政府軍は箱館総攻撃をおこないます。四稜郭が陥落し、箱館市街は新政府軍が制圧しました。元新撰組副長・土方歳三が戦死、箱館港では旧幕府脱走軍の艦隊が全滅

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