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旧日本軍の最終兵器とされた殺人光線【Z】とは?島田実験場・71年目の真相【マグネトロン】

第二次大戦末期、静岡県島田市、海軍の秘密実験所、、殺人光線「Z」、最終兵器「Z」、日本の原子爆弾、旧日本軍、マグネトロン、牛尾実験所、ノーベル賞日本人受賞者 Z計画

更新日: 2016年03月12日

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nao6311さん

旧日本海軍が築いた強力電磁波兵器研究施設「第二海軍技術廠(しょう)牛尾実験所」跡
強力な電磁波を発生させる「マグネトロン」を秘密裏に開発していた同施設では、後にノーベル賞を受賞する湯川秀樹氏や朝永振一郎氏も研究に参加。

戦争末期、「殺人光線」と呼ばれる兵器研究所が島田市にあったという。
それは海軍技術廠電波一科島田分室であり通称「Z研究」と呼ばれた。

大きなパラボラアンテナで強力な電波を照射して、敵飛行機を故障させる実験

世界を瞬時に破壊できる、核兵器よりも恐ろしい兵器=EMP電磁パルス兵器

アメリカでも知られている通り、世界を瞬時に破壊できる兵器があります。それはEMP電磁パルス兵器です。
BlazeTVは、最近、EMP攻撃についての特別番組の中で、EMP攻撃がいかに危険であるかを訴えました。EMP攻撃により、電気網や重要インフラが全て破壊され、その結果、アメリカ社会を形成する基礎構造が全て破壊されてしまうからです。EMP攻撃を受けると、上空を飛んでいる複数の旅客機のコントロールパネルが破壊され旅客機は墜落し、何千人もの犠牲者が出ると警告されています。さらに水不足や食糧不足が人々の生活を襲い、市民暴動が起きてしまいます。

旧日本軍の登戸研究所は戦時中,電子レンジと同じ原理で強力なマイクロ電波を強力なアンテナでB-29爆撃機にあてて,撃墜する研究をしていましたが,マイクロ電波を発生するマグネトロン真空管は、開発できたが,実用化の前に終戦となりましたブタなどを焼死させる実験には成功したが,発電所一基分の膨大な電力を必要とするので,お蔵いりとなった,このマイクロウェーブ兵器を怪力光線と呼ばれていました、

戦況挽回兵器として当時の日本がウラン爆弾(原爆)と二本柱で極秘裏に開発を目指したが、敗戦で幻の兵器となった。

日本陸軍は福島県石川郡石川町でのウラン採掘を決定、1945年4月から終戦まで旧制私立石川中学校の生徒を勤労動員して採掘させた。しかし、そこで採掘される閃ウラン鉱・燐灰ウラン石・サマルスキー石等は、ごく少量であり、ウラン含有率も少ないものであった。一方、日本海軍は、中国の上海におけるいわゆる闇市場で130kgの二酸化ウランを購入する。当時、チェコのウラン鉱山がナチス・ドイツ支配下にあったので、ナチス・ドイツの潜水艦(U-234)による560kgの二酸化ウラン輸入も試みられたが、

日本への輸送途中でドイツの敗戦となり、同艦も連合国側へ降伏してしまった。こうして、どちらにせよ原子爆弾1個に必要な臨界量以上のウラン235の確保は絶望的な状況であった。

電波兵器の研究成果は戦後、電子レンジなどに応用され、人々の生活に役立っている。
 市教委の担当者は「戦争遺跡として非常に重要だと認識している。(写真や図面を残す)記録保存を前提に発掘調査する予定で県と調整している」と話す。
 地元の金谷郷土史研究会の臼井利之さん(66)は「地域の貴重な資源になりうる。一度壊せば元には戻せない。何とか工夫して部分的だけでも保存できないか」と慎重な対応を望んでいる。

市教育委員会は、牛尾山鼻地区に太平洋戦争時に旧日本海軍が築いた強力電磁波兵器研究施設「第二海軍技術廠(しょう)牛尾実験所」跡の遺跡を報道陣に公開しました。

マグネトロンという装置は、マイクロ波という電磁波を発生させ、
レーダーに使われます。

戦後、マグネトロンは平和利用もされましたが、
軍事利用もされました。

レイセオンという米国企業は、戦争中、
マグネトロンが部品となるレーダーを大量に生産していました。

『電磁パルス』と『ソニック技術(音響技術)』、『ショックウェーブ(衝撃波)爆弾』を加えたこの『装置』が、強烈なマグニチュード7.2の大地震を誘発して2002年3月にアフガニスタンを襲った時、アフガニスタン民族との戦いに地震兵器を使用した事でロシアが非難しました。

『日本は、1995年に地震によって攻撃されます。』

『高い確率で予想される場所は神戸です。』

『村井秀夫(オウム真理教科学技術省大臣)はこの見解を固守しました。
村井【これまで最も知的な日本人だと言われた 】はこの記録に関して詳細を海外ニュース記者に話して、暗殺を組織化するヤクザによって殺されました。』

オウム真理教に関して『FSB』レポートでは、この『終末』装置の予定された使用についての、教団が持つその知識の大部分の秘密ファイルがアメリカ機関のいくつかのセキュリティーに侵入した『ブランチ・ダヴィディアン宗教団体に属している米国ハッカー』からもたらされたとしています。

第二次大戦末期に日本の起死回生を願って開発された「強力電波兵器」。日本最高峰の物­理学者である「朝永振一郎」や「湯川秀樹」らを招いて開発が進められたが、先に広島と­長崎に原子爆弾が投下され、敗戦となり日の目を見ることなく開発中止となってしまった­。

ふるさとの地で、最先端科学の技術開発がされていたことに、とても驚きを感じました。

取材より半年以上も経って、私はその地を訪れてみました。大井川の河川拡張工事で、い­ずれこの史跡は消滅してしまいます。写真(ブログ:記録屋)とビデオ(YouTube­)で紹介する予定です。

波長:1.5m
ピーク出力:13kw
パルス長:3ms
パルス繰返数:1000cps
アンテナ:分離式

4号電波探信儀1型:
この兵器は比島に於いて日本海軍が鹵獲した米国のSCR268型から資料を得て設計されたもので、空中線、機器及び操縦手台はいずれも旋回台上に装備され、空中線は送信空中線、方向測定用受信空中線及び高角測定用空中線から成り、いずれも八木空中線であって、同一木枠に取り付けられ、夫々4×4、4×4、2×6素子から成る。波長1.55m、送信出力25KW、高度3000mの水上偵察機単機に対し、確実捕捉距離23km、距離精度上下100m、方向精度上下1度、高角15度以上に於ける高角精度上下0.5度程度の性能を有し、60台製造された。第1号機は昭和18年夏完成し、東京月島7号埋立地に装備され、横須賀砲術学校から派遣された兵曹長を主班とする射撃用電波探信儀実験所研究協力班に依って、充分なる実用実験並びに操法に関する検討を経て、ラボールに運ばれ、昭和18年夏には中央高地砲台に装備実用された。これが本邦に於ける対空射撃用電波探信儀の最初のものである。その後急激に前線への輸送が困難となったため、これ以外は前線装備の機会を逸し、台湾及び内地の砲台に装備され、4号2型改2が出来るまでは実用兵器として使用された。

号電波探信儀2型:
この兵器は、シンガポールに於いて鹵獲した英国のSLC装置の資料を、全面的に取り入れて兵器化されたものである、波長1.5m、空中聴音機の架台に送信空中線として八木空中線1素子、受信空中線として八木空中線4素子及び送受信機、指示装置等を装備したもので、4素子の受信空中線を位相環に接続し、位相切換に依り指向性をベクトル式に回転せしめ、方向及び高角を測定する方式のものである。高度3000mの中型攻撃機単機に対し、確実捕捉距離7km、距離精度上下100m、方向精度、高角精度はいずれも上下1度程度の性能をもっていた。4号1型に比べると、小型軽量であったため、艦船用として設計されたが、能力不足のため、陸上用に振り替えられた。後更に架台を新造し、空中線を大きくし、送信出力を倍加し、測距装置並びに方向切換装置を改良して、4号2型改2を造った。本機は探信能力、測距測角精度共に優秀で、且量産向に設計されたため、メートル波に依る対空射撃用電波探信儀最終型として量産整備されたのである。4号2型の第一号機は昭和17年12月完成、房州館山の館山砲術学校構内に装備され実用実験に移されたが、付近地物からの反射波に妨害されて測定不能となり、この妨害除去対策に苦心したが、このため装備位置選定に対し貴重な資料を得た。その結果、この兵器は主として、平地又は山の凹地に装備された。初期の4号2型としては30台、改1としては20台、改2としては70台製造された。しかし戦局の変化に因り、海軍として実際に装備実用したものは全体として十数台に止まった。

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