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【研ぎ澄まされた彫物】名工・左甚五郎伝説【庶民のヒーロー】

伝説の名工・左甚五郎。彼の作品はあまりにリアルな為、その木彫りの動物たちが夜な夜な歩き出したという伝説を持っています。

更新日: 2016年01月15日

face1000さん

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左 甚五郎

左 甚五郎(ひだり じんごろう、ひだの じんごろう)は江戸時代初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人。落語や講談、松竹新喜劇で有名であり、左甚五郎作と伝えられる作品も各地にある。講談では地元の大工に腕の良さを妬まれて右腕を切り落とされたため、また、左利きであったために左という姓を名乗ったという説もある。

日光東照宮の眠り猫をはじめ、甚五郎作といわれる彫り物は全国各地に100ヶ所近くある。しかし、その製作年間は安土桃山時代~江戸時代後期まで300年にも及び、出身地もさまざまであるので、左甚五郎とは一人ではなく各地で腕をふるった工匠たちの代名詞としても使われたようである。

人情に弱く、酒好きで、失敗ばかり…。しかしいざ仕事となると、腕一本で精巧な作品を作り上げます。甚五郎は、水戸黄門や赤穂浪士と並ぶ、庶民のヒーローだったのです。

左 甚五郎(ひだり じんごろう、ひだの じんごろう)は江戸時代初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人。落語や講談、松竹新喜劇で有名であり、左甚五郎作と伝えられる作品も各地にある。講談では地元の大工に腕の良さを妬まれて右腕を切り落とされたため、また、左利きであったために左という姓を名乗ったという説もある。

日光東照宮の眠り猫をはじめ、甚五郎作といわれる彫り物は全国各地に100ヶ所近くある。しかし、その製作年間は安土桃山時代~江戸時代後期まで300年にも及び、出身地もさまざまであるので、左甚五郎とは一人ではなく各地で腕をふるった工匠たちの代名詞としても使われたようである。

見ざる・云わざる・聞かざる

彫られた三猿<見ざる・云わざる・聞かざる>は眠り猫と並ぶ人気者ですが、「子どもは悪いことを見たり、云ったり、聞いたりしないで、素直に育ちなさい」と教えています。

左甚五郎作“子宝・子育ての虎”

左甚五郎作の彫刻“子宝・子育ての虎”です。彫刻の下には、「赤子には肌を離すな、幼児には手を離すな、子供には目を離すな、若者には心を離すな」と親の心得が書かれた札がありました。お母さん虎だけが豹柄ですね。

むかしむかし、宮津(みやず)地方では、田植えが終ったにもかかわらず一滴の雨も降らなかった事がありました。
 困った村人たちは、
「せっかくの稲が、これでは台無しだ。雨が降らないのは水の神さま、きっと竜神さまのたたりに違いない」
と、成相寺(なりあいじ)の和尚さんに、雨乞いのお祈りを頼んだのです。
 すると和尚さんは一晩中お経を唱えて、仏さまからいただいたお告げを村人たちに教えました。
「何でも、この天橋立(あまのはしだて)に日本一の彫り物名人が来ておるそうじゃ。
 生き物を彫れば、それに魂が宿るといわれるほどの名人らしい。
 その名人に竜の彫り物を彫ってもらえば、それに本物の竜の魂が宿り、きっと雨を呼ぶであろう」
 そこで村人たちが手分けをして探してみると、和尚さんの言う通り、左甚五郎(ひだりじんごろう)という彫り物名人が天橋立の宿に泊まっていたのです。
 村人たちの熱心な願いに、左甚五郎は深くうなずきました。
「仏さまのお告げに、わたしの名前が出てくるとは光栄です。
 わかりました。
 未熟者ですが、やってみましょう」
 しかし引き受けたのは良いのですが、左甚五郎には竜がどんな姿なのかわかりません。
 他人が描いたり彫ったりした竜の絵や彫り物は、今までに何度も見た事があるのですが、しかしそれはその人が考えた竜の姿で、本物の竜ではありません。
「他人が作った物の真似事では、それに魂が宿る事はない」
 そこで甚五郎は成相寺の本堂にこもり、仏さまに熱心にお祈りをしました。
「仏さまのお導きにより、竜の彫り物を彫る事になりましたが、わたしは竜を見た事がありません。
 名人と言われていますが、いくらわたしでも見た事もない物を彫る事は出来ません。
 お願いです。どうぞ、竜の姿を拝ませて下さい」
 そして数日後、甚五郎の夢枕に仏さまが現われて、こう言ったのです。
「甚五郎よ。
 そなたの願いを叶えてやろう。
 この寺の北の方角に深い渕(ふち)がある。
 その渕で祈れば、きっと竜が現れるはずじゃ」
「はっ、ありがとうございました!」
 さっそく甚五郎は案内人の男と二人で、世屋川(せやがわ)にそって北の方へ進んで行きました。
 しかし奥へ進むにつれて人の歩ける道はなくなり、とうとう案内人は怖がって帰ってしまい、甚五郎は一人ぼっちで奥へと進んだのです。
 険しい道でしたが、竜を見たいという甚五郎の心には、恐さも疲れも感じませんでした。
 そしてついに甚五郎は、竜が現れるという、大きな渕にたどり着く事が出来たのです。

 甚五郎は岩の上に正座をすると、そのまま三日三晩、一心に祈り続けました。
(この渕に住む竜よ。一目でよい、一目でよいから、その姿を見せてくれ)
 すると、どうでしょう。
 急にあたりが暗くなったかと思うと、大粒の雨がバラバラと降り始め、渕の奥から大きな竜が姿を現わしたではありませんか。
 竜は口からまっ赤な火を吐きながら、今にも甚五郎に襲いかかろうとしました。
 しかし、甚五郎は逃げません。
 その竜の姿をまぶたに焼き付けようと、まばたきもせずにその竜を見つめました。
 そして竜は真っ直ぐ甚五郎に向かって来て、身動き一つしない甚五郎にぶつかる直前に、すーっと消えました。
 その途端に、甚五郎の全身にあふれんばかりの力がみなぎりました。
 まるで竜の霊力が、甚五郎の体に宿ったかのようです。
「おおっ! 竜を見た! わたしは竜を見たぞー!」
 甚五郎は雄叫びを上げると急いで成相寺に戻り、それから何日も休む事なく、一心に竜を彫り続けました。
 そしてやっと彫りあがった竜が成相寺にかかげられ、雨乞いの祈りが行われたのです。
 すると不思議な事に、今まで晴れていた空が急に曇ると、ザーザーと大雨が降り始めたのです。
「雨だ。雨が降ってきたぞー!」
「竜のおかげだ! 甚五郎さまのおかげだー!」
 村人たちは大喜びです。
 そして今にも枯れそうだった稲も、みるみるうちに元気になりました。

 この事があってから、甚五郎が竜に出会った渕は『竜ヶ渕(りゅうがふち)』と呼ばれる様になり、甚五郎が彫った竜は今も成相寺に大切に残されているそうです。

甚五郎は、1600年後半から1600年代初頭の人。播州明石で生まれ、飛騨山脈で鑿の修行をしたといわれる。日光東照宮の工事をめぐるいさかいがあり、右腕を切り落とされ、左手一本で細工をすることからこの名がある。
 あくまで庶民と等身大の職人で、人情に弱く酒が好き。だが、いざ鑿を持てば、類稀なる才能に磨きを加えた腕一本で、金持ちや武家が舌を巻く見事な仕事をやってのけ、ずるい連もこらしめる、いわば庶民のヒーローである。
 この甚五郎が主役の演目は、江戸時代から、講談、落語、浪曲などに多数あった。その一つに「木彫りの鯉」という話がある。
 それは、京都、知恩院御影堂の建立のために召喚された甚五郎が、道中追いはぎに遭遇した事にはじまる。
 身ぐるみはがされ無一文になった甚五郎は、ある庄屋に助けられその屋敷にやっかいになることになった。そこでもう一人の左甚五郎が泊まっていることにおどろかされる。このもう一人の甚五郎、庄屋にねだっては傍若無人のふるまいで、酒がまずいだの料理が下手だの言いたい放題、し放題。このままでは「左甚五郎」の名がすたれるが、「われこそ本物」と名のっても、ふんどし一つの身では、天下の将軍のお声掛かりの甚五郎とは到底信じてもらえそうにない。
 毎日、苦汁を飲む思いで、庄屋の下働きをしていた。
 ある日、京に上がる左甚五郎が近くの庄屋に泊まっていることが遠州の殿様の耳に届き、ゆかりの寺に彫り物を寄進させようと頼みに来た。
 これを聞いた甚五郎は、「ニセ者をあばけるはこの時ぞ」と自ら彫り物を寄進する事を申し出た。殿様も、天下の名大工甚五郎と庄屋の下働き大工との彫り物勝負、これは一興と、双方の大工に鯉を彫るように命じた。
 いよいよ披露の日となった。たくさんの見物者が泉水の周りに集まった。
 紫の袱紗をかけられた二つの木彫りの鯉が、三宝に上にのって出され、片方ずつ袱紗をとられていった。
 ニセの甚五郎の彫った鯉は、本物そっくりの出来ばえで、一同そろって歓声を上げた。一方、本物の甚五郎が彫った鯉は、とても魚とは思えない。これにはみんな顔を見合わせ苦笑いした。
 しかし、ここで甚五郎が双方の鯉を泉水に入れることを申し出た。殿様も笑いながら「往生際の悪い奴。勝手にするがよい。」と言う。かくして二匹の鯉は泉水の中へ。するとニセの甚五郎の彫った鯉は、すぐに腹を見せて浮かび上がった。しかし、もう一方の不恰好な鯉は、まるで尾をピチピチ跳ねて泳ぎださんばかりに見える。一同、思わずうなり声をあげた。そこで甚五郎が一言。
 「鯉は水の中にあってこそ鯉と言えましょう…」
 この言葉で一同は全てを了解した。

当時の名工、左甚五郎が魔除けのために置いていったという説と、知恩院第32世の雄誉霊巌上人が御影堂を建立するとき、このあたりに住んでいた白狐が、自分の棲居がなくなるので霊巌上人に新しい棲居をつくってほしいと依頼し、それが出来たお礼にこの傘を置いて知恩院を守ることを約束したという説とが伝えられています。

いずれにしても傘は雨が降るときにさすもので、水と関係があるので火災から守るものとして今日も信じられています。

むかしむかし、日本一の名工と名高い左甚五郎(ひだりじんごろう)が、京都の知恩院(ちおんいん)というお寺の本堂を完成させた時、それを見た都の人たちが、そのあまりの見事さにこんなうわさをしました。
「さすがは、左甚五郎。見事な出来だ」
「ああ、ここには、一点の欠点もない」
「しかし、あまりにも完全すぎると、それを知った神さまが嫉妬(しっと)して、不幸を起こすと言うぞ」
 もちろん、この言い伝えを知っていた左甚五郎は、この仕事がまだ不完全であるかのように見せかけるために、お堂の屋根の瓦を二枚、わざとつけなかったのです。
 そしてさらに自分が使っている唐傘(からかさ)を、わざと本堂のわきに置いて帰りました。

 さて、本堂が完成してからしばらくして、本堂で偉いお坊さんの話を聞く会がもよおされました。
 その日は、あいにくの大雨でしたが、その雨の中をやって来た一人の子どもが熱心に話を聞いていました。
「まだ小さいのに、なかなか信心深い子だ」
 話をしているお坊さんは、とても感心して子どもを見ていました。
 やがて話は終りましたが、大雨は少しもやむ気配がありません。
 そこでお坊さんは、本堂から出ていこうとする子どもに声をかけました。
「この雨では、風邪を引いてしまう。この傘を、持って行きなさい」
 そしてそこに立てかけてあった甚五郎の唐傘を、子どもに差し出しました。
 すると子どもは礼儀正しく頭を下げて、こう言ったのです。
「わたしは、このご本堂が建つ前からここの草むらに住んでいた、濡髪童子(ぬれかみどうじ)という白ギツネです。
 住み慣れた家を奪われて、うらみに思っていましたが、今日、お坊さまのお話を聞いて心を入れ替える事にしました。
 うらみは忘れて、これからはこのお寺をお守りします」
 それを聞いたお坊さんはびっくりしましたが、にっこり笑って言いました。
「そうか、ありがとう。それならここに祠(ほこら)を建てて、そなたの住む所をつくってやろう」
 白ギツネの濡髪童子はうなずいて傘を借りると、降りしきる雨の中を山の方へと帰っていきました。

 次の日、お坊さんが朝のおつとめをすませて本堂から出てくると、本堂のわきの軒下に、昨日貸した甚五郎の唐傘がちゃんと置いてありました。
 お坊さんはにっこり微笑むと、白ギツネとの約束通り、お寺の境内に小さな祠を建てて、濡髪堂(ぬれかみどう)と名づけたのです。

 左甚五郎の忘れ傘は、長い年月に紙が腐って骨だけになってしまいましたが、今でも知恩院の本堂に置いてあるそうです。

むかしむかし、左甚五郎という人がいました。
この旅人、夜、山に迷ってしまいました。
心寂しい山奥で人家は見受けられませんでしたが、歩いているうちに、
向こうに薄明かりのついた一軒の家を見つけました。
「なんとかお願いして軒先でもお借りしよう」
そう思い甚五郎はその家を訪ねました。
家の中からおばあさんが出てきて
「いいですよ、おはいりなさい」と家に入れてくれました。
でも、なにか陰気なおばあさんです。
それでも甚五郎は大喜びでその日は泊まらせてもらうことにしました。
道に迷った疲れからかぐっすりと寝込んでいた甚五郎ですが、
深夜、「トン、トン」という音に目を覚ましました。
ぼんやりとした薄暗いなかで、
なにか大きな物体がトン、トンと飛び跳ねているようです。…
甚五郎はその眠っている猫を彫刻しました。
これが日光に残る左甚五郎の猫なのです。

天下の名工として名高い、左甚五郎。

江戸へ下る途中、
名前を隠して、三島宿の大松屋佐平という旅籠(はたご)に、宿をとった。

ところが、朝から酒を飲んで管をまいているだけで、
宿代も払おうとしないので、
たまりかねた主人に追い立てを食うが、
甚五郎、平然としたもので、
ある日、中庭から手頃な大きさの竹を一本切ってくると、
それから数日、自分の部屋にたてこもる。

心配した佐平がようすを見にいくと、
なんと、見事な竹造りの水仙が仕上がっていた。

たまげた佐平に、
甚五郎、
この水仙は昼三度夜三度、昼夜六たび水を替えると
翌朝不思議があらわれるが、
その噂を聞いて買い求めたい
と言う者が現れたら、町人なら五十両、侍なら百両、
びた一文負けてはならない、と言い渡す。

これはただ者ではない
と、佐平が感嘆していると、
なんとその翌朝、水仙の蕾が開いたと思うと、
たちまち見事な花を咲かせたから、一同仰天。

そこへ、たまたま長州公がご到着になり、
このことをお聞きになると、ぜひ見たい
とのご所望。

見るなり、長州公
「このような見事なものを作れるのは、天下に左甚五郎しかおるまい」

ただちに、百両でお買い上げになった。

甚五郎、また平然と
「毛利公か。あと百両ふっかけてもよかったな」

いよいよ出発という時、
甚五郎は半金の五十両を宿に渡したので、
今まで追い立てを食わしていた佐平、ゲンキンなもので
「もう少しご逗留になったら」

江戸に上がった甚五郎、
上野寛永寺の昇り龍という後世に残る名作を残すなど、
いよいよ名人の名をほしいままにしたという、「甚五郎伝説」の一説。

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