李珍宇は1940年2月28日、東京都城東区亀戸の朝鮮人部落で生まれた。46年に家は空襲で焼け出され、江戸川区上篠崎に移り住んでいる。三男三女の次男で、日本名は金子鎮宇といった。
 
 父親は酒好きで窃盗の前科があり、母親は半聾唖だった。同居するおじも前科8犯のスリだった。
 父親は1918年(大正7年)に日本に渡ってきた。「造船所で働いてくれ」と言われたのに、実際に送られたのは炭坑だった。戦後、日雇い労働者として働きながら、何度か窃盗をはたらいた。事件当時にはすっかりアルコール中毒になっており、稼ぐ金はほとんど酒代となり、家族から文句を言われていた。

 李が5歳の時に戦災に焼き出され、江戸川区にトタンぶきのバラックを建てて引っ越した。一家の生活は、朝鮮人部落のなかでも貧しいものだった。李の供述によれば、「きつねうどん以上のごちそうを食べたことがなかった」らしい。

 小学5年くらいの時、友人に誘われて、近所の2つほど年上の少女と関係を持った。それが初体験である。

 篠崎中学校では生徒会長を務め、抜群の秀才だった。極貧のため教科書が買えないため、筆写して勉強に励んでいたという。理数系の成績は良くはなかったが、特に国語、社会が得意だった。弁論大会にも出場したこともある。読書意欲も旺盛で、なかでもドストエフスキーなどを愛読していたが、ある日図書館から外国文学書計53冊を盗み、東京家裁で保護観察処分を受ける。また修学旅行に行けない腹いせに担任教諭の腕時計と長靴を盗むという事件も起こしている。

 その後、日立製作所、精工舎などに就職を望むが、韓国籍のため不況下の町工場を転々とした。月収5000円はすべて家に入れていたという。ある工場では、同僚の女性に後ろから抱き付いて叱られたこともあった。
 事件当時は自転車のベルを作る工場に勤めながら、小松川高校の夜間学部に通っていた。

 1958年1月、図書館での盗みが発覚。自宅の本棚から発見されたのはゲーテ「ウィルヘルム・マイスターの徒弟時代」、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」、トルストイ「復活」、メルヴィル「白鯨」。ほとんどが外国文学だった。

 4月20日午後7時15分頃、李は銭湯から帰る途中、自宅近くの江戸川区鹿骨町前潟橋付近の路上で、自転車に乗ったS子さんを発見。S子さんは男性のような格好をしていたというが、これが想像力をかきたてるかたちのなり、気になって後を追いかけた。そして篠崎町の浅間道路上で追いつき、道路脇の田んぼに押し倒して馬乗りになり、首を絞めた。S子さんが気を失うと姦淫したが、遂げる前に意識をもどしたので再び首を絞めて殺害したという。

 8月17日。日曜日であり、暇を持て余していた李は、「学校に行けば誰かに会えるだろう。それでキャッチボールでもやろう」と午後4時頃に自転車で高校に出かけた。李は夏休み中でひっそりしていた自分の教室である1年南組に入り、黒板にいたずら書きなどをしていたが、それにも飽きて屋上に昇った。
 屋上の水槽手前では、Y子さんが石の上に座って本を読んでいた。李はY子さんのことは知らなかったが、屋上をうろうろしているうちに、「この娘と関係を持ちたい」と思った。
 Y子さんの傍で「やろうか、やるまいか」とうろうろしているうちに、Y子さんは不審に思って立ちあがった。李はポケットからナイフを出し、Y子さんお腕を引っ張って、時計台の方へ連れて行った。当然Y子さんは大声を出して嫌がり、李は押し倒し両手で首を絞めて殺害した。遺体は横穴の方まで引きずって行き、その中に隠した。李はもみ合いの途中に自分のナイフで指を切ったので、これを見られないように暗くなるのを待って立ち去った。またY子さんの所持品も李の指紋が付着していたので奪った。(以前逮捕された時に指紋をとられていた)

 逮捕された時、押収された日記には次のように書かれていた。
「屋上から見える空。雲も月も星も全部が注視している。見よ!この偉大なる力。すばらしい勝利。輝くひとみ。赤い顔」

http://yabusaka.moo.jp/komatukawa.htm

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小松川事件【李珍宇】まとめ

1958年8月、新聞社に若い男から「高校で女を殺した」という内容の電話があった。 まもなく警察が現場を調べたところ、同校のY子さん(16歳)の遺体が発見される。男はその後も警察署や新聞社に電話しつづけ、逮捕された。男は同校夜間部の李珍宇(当時18歳)。さらにもう1件の女性殺しを自供した。

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