1. まとめトップ

完成後8年で壊された黄金の城「聚楽第」

幻の建造物「聚楽第」は黄金に包まれた巨大な城郭だったようです。

更新日: 2016年06月29日

12 お気に入り 141182 view
お気に入り追加

この記事は私がまとめました

k-beingさん

聚楽第(じゅらくだい)は、安土桃山時代、山城国京都の内野(平安京大内裏旧跡)に豊臣秀吉が建てた政庁兼邸宅である。

竣工して8年後に取り壊されたため構造などについては不明な点が多い。

1586年(天正14年)聚楽第着工

聚楽第は関白になった豊臣秀吉の政庁兼邸宅として1586年(天正14年)2月に着工され、翌1587年(天正15年)9月に完成した。

1月29日 天正地震が発生、長浜城大破。
10月27日 徳川家康が豊臣秀吉の臣下となる。

豊臣秀吉の栄華の象徴・聚楽第

九州征伐を終えた秀吉が大坂より移りここで政務をみた。1588年5月9日(天正16年4月14日)には後陽成天皇の行幸を迎えてこれを饗応している。

安土桃山時代から江戸時代初期の第107代天皇。

慶長16年、政仁親王(後水尾天皇)に譲位するが、父子の間は長く不和であり続けたと伝えられている。

元和3年(1617年)に崩御、宝算47歳。葬儀は火葬で行われた。平成の現在において、最後に火葬で葬られた天皇である。

天下の半分を従えて、人臣極めた関白に任じられた豊臣秀吉は内野(聚楽第)に豪華絢爛な宮殿を建て後陽成天皇を聚楽第にお招きし諸侯に忠誠誓わせ豊臣の天下を世に知らしめる

1591年(天正19年)12月に秀吉が関白職を甥の豊臣秀次に譲ったあとは、秀次の邸宅となった。翌、1592年(天正20年)1月には再度、後陽成天皇の行幸を迎えている。

京都御所の西側、二条城の北側あたりに位置し、東西は大宮通から智恵光院通まで、南北はおよそ一条通から下長者町通までが範囲だったとされている。

聚楽第の周辺地域には秀吉麾下の大名屋敷を配置した。聚楽第と御所の間は金箔瓦を葺いた大名屋敷で埋め尽くされたと考えられている。大名屋敷のほかに側近である千利休の屋敷もあった。

『大日本古文書 浅野家文書』にある「東御門番役書」では堀秀治、池田輝政、長谷川秀一、木村重茲、浅野幸長、前田玄以が東御門番を務めています。

豊臣政権の京都行政を担う京都所司代の前田玄以が含まれることから京都にある豊臣家の重要拠点であることがわかります。

聚楽第は「第」(= 邸)とあるが、本丸を中心に、西の丸・南二の丸及び北の丸(豊臣秀次増築)の三つの曲輪を持ち、堀を巡らせた平城であった。

建物には金箔瓦が用いられ、白壁の櫓や天守のような重層な建物を持つ姿が「聚楽第図屏風」や「洛中洛外図」などの絵図に描かれている。

国宝・重要文化財(美術品)

京都府聚楽第跡出土品のうち、上京区和水町と両御霊町【りょうごりょうちょう】から出土した軒丸瓦【のきまるがわら】・軒平【のきひら】瓦・飾【かざり】瓦および鬼【おに】瓦の一括資料である。

豊臣秀次の悲劇の舞台・聚楽第

秀吉は甥秀次を養子にし聚楽第と関白を譲ったが、秀頼が生まれると我が子かわいさに、秀次に謀反の疑いをかけて高野山で切腹させ、聚楽第を破壊することで秀次の痕跡を地上から消す秀吉の所業に、衆人は恐れをなす。豊臣の天下に暗雲が立ち込める。

1595年(文禄4年)聚楽第破却

しかし、実子秀頼が誕生したために秀次が疎ましくなった秀吉は、秀次を高野山に追放して切腹させ、秀次の居城であった聚楽第も翌8月、徹底的に破却した。

豊臣家の夢の跡

聚楽第の跡地では,勧進能が行われ,芸能興行の場となりました。その後,次第に人家が立ち並び,聚楽組(じゅらくぐみ)と呼ばれる上京の町組の一つとして編成されました。

後に御所に参内するための利便上、新たに豊臣家の京屋敷を建設する必要に迫られ、現在の仙洞御所の地に「京都新城(後に北政所が居住)」が設けられた。

京都新城とは、豊臣秀吉が聚楽第破却後、皇室に仕える豊臣関白家の正式な邸宅として京都御所南東に構えた城郭風邸宅である。

完成した屋敷を秀吉は数度訪れたが、いずれも短期の滞在で移居はしなかった。

翌年8月に秀吉は死去、翌慶長4年9月からは北政所が大坂から移居し、以後高台院屋敷として使われた。

1

関連まとめ