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日本航空123便墜落事故(日航ジャンボ機墜落事故)の真実とは

日本航空123便墜落事故は、1985年(昭和60年)8月12日月曜日18時56分に、東京(羽田)発大阪(伊丹)行同社定期123便ボーイング747SR-46が、群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(御巣鷹の尾根)に墜落した事故である。

更新日: 2017年08月13日

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日本航空123便墜落事故(日航ジャンボ機墜落事故)

日本航空123便墜落事故(にほんこうくう123びんついらくじこ)は、1985年(昭和60年)8月12日月曜日18時56分に、東京(羽田)発大阪(伊丹)行同社定期123便ボーイング747SR-46(ジャンボジェット、機体記号JA8119)が、群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(御巣鷹の尾根)に墜落した事故である。

日本航空123便墜落事故(日航ジャンボ機墜落事故) 概要

1985年8月12日、乗員乗客あわせて524名を乗せた羽田空港18:00発伊丹空港行き(18:56着予定)の日本航空123便(B747SR・JA8119)が羽田空港を離陸。

しかし離陸して約30分後に、機体に異常が発生。操縦不能に陥った機体は迷走を続け、パイロットの必死の努力もむなしく、異常発生の約30分後に群馬県と長野県の県境にある御巣鷹の尾根へ墜落した。

当日のJAL123便はお盆の帰省シーズンであること、当時開催中のつくば万博からの帰り客がいたことなどから、ほぼ満員となっており、乗員乗客524名が搭乗していたが墜落によりその内の520名が犠牲となった。

犠牲者には歌手の坂本九、元宝塚歌劇団の北原瑤子、阪神タイガース社長中埜肇、ハウス食品社長の浦上郁夫、コピーライターの藤島克彦ら数名の著名人や、甲子園球場で行われていた夏の高校野球を見に1人で搭乗していた小学生なども含まれている。

事故の前日には東京でコミックマーケットが開催されており、コミケ帰りに事故に遭った参加者や、当時絶大な人気を誇った同人作家緋本こりんもこの事故で亡くなっている。


http://dic.nicovideo.jp/a/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%88%AA%E7%A9%BAjal123%E4%BE%BF%E5%A2%9C%E8%90%BD%E4%BA%8B%E6%95%85

異常発生・墜落

当日のJAL123便はほぼ定刻通りの18:04に羽田空港を出発、12分に離陸。予定通りの航路を飛行していた。

しかし離陸して約12分後、航空機内の気圧を維持する後部圧力隔壁が破損※。この際の衝撃で垂直尾翼を失うと同時に、油圧管が全て破損した事で油圧を喪失。油圧系、すなわち操縦桿を用いた機体の制御が完全に不可能な状態へ陥った。この事態にパイロットは緊急事態を宣言(スコーク77: トランスポンダの状態番号を「非常事態」を示す7700に設定)すると同時に、即座に羽田へ戻る事を管制塔へ要請。また通信を聴いた米軍横田基地も最優先で123便を受け入れる準備を整えた。パイロットはエンジンの出力調整などの限られた手法を用いて必死に機体を制御して羽田へ向かおうとしたが、尾翼を失ったことによって安定性が失われ、ダッチロールとフゴイド運動が激しくなりつつあった機体は徐々にコントロールを失い、群馬県の山岳地帯へ向かい始める。

なおも諦めずに制御を続けたが、異常発生の約30分後に右主翼が地面へ接触し(立木に激突したという説もある)、この際の衝撃で機体後部が脱落して先に落下。この脱落した後部は尾根に沿って滑落、衝撃が少なく火災に巻き込まれることはなかった。これが奇跡的に生存者を生み出す要因となる。しかし機体の分解が始まり、完全にコントロールを失った機体を最早立て直す事は出来ず、18:56、群馬県と長野県の県境の御巣鷹の尾根 (御巣鷹山ではなく高天原山(たかまがはらやま)山系に位置する尾根) に引っくり返るような形で墜落。機体は跡形もないほどに破壊され、爆発炎上した。

墜落直前、上昇を試みてエンジン出力を上げていた状態で地面に衝突したため、墜落時の速度はおよそ350kt(時速650~700km/h)、その衝撃は数百Gと推定される。

後に発見されたCVRには異常発生から墜落の直前の音声までが鮮明に記録されており、コクピット内でクルー達が舵の効かなくなった機体を必至に持ち直そうとする様子や、機長が他のクルーを励ます様子、また客席内の音声からは異常事態の中でも冷静を保ち続けたCA達の様子を伺い知ることができる。しかし、最後に記録された音声は墜落時刻の約10秒前、GPWSの警告音声が流れる中に記録された、操縦士(機長と思われる)の「ああ、だめだ!」という断末魔の悲鳴であった。

http://dic.nicovideo.jp/a/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%88%AA%E7%A9%BAjal123%E4%BE%BF%E5%A2%9C%E8%90%BD%E4%BA%8B%E6%95%85

飛行航跡図と合わせボイスレコーダ

18時24分47秒:JAL123便が緊急救難信号「スコーク77 (7700)」の無線信号を発信、信号は所沢の東京航空交通管制部(以下 東京ACC) に受信された。直後に高濱機長が無線で管制部に対して緊急事態発生のため羽田へ戻りたいと告げ、管制部はそれを了承した。JAL123便は伊豆大島へのレーダー誘導を要求した。管制部は右左どちらへの旋回をするか尋ねると、機長は遠回りとなる右旋回を希望した。羽田は緊急着陸を迎え入れる準備に入った。

27分:東京ACCが123便に緊急事態を宣言するか確認し、123便から宣言が出された。続いて123便に対してどのような緊急事態かを尋ねたが、応答はなかった。このため、ACCはJAL本社に123便が緊急信号を発信していることを知らせる。

28分:東京ACCは123便に真東に向かうよう指示するが123便は操縦不能と返答。ACCはこの時初めて123便が操縦不能に陥っていることを知る。

31分:東京ACCは羽田より近い名古屋空港に緊急着陸を提案するが、123便は羽田行きを希望する。通常は航空機と地上との無線の交信は英語で行われているが、管制部は123便のパイロットの負担を考え、日本語の使用を許可し、以後の交信では123便は一部日本語が用いられている。

33分頃:JALはカンパニーラジオ(社内無線)で123便に交信を求める。
35分:123便から R-5 のドアが破損したとの連絡があった後、その時点で緊急降下しているので後ほど呼び出すまで無線をモニターするよう求められ、JALは了承した。

40分:東京ACCが、123便と他機との交信を分けるため、123便専用の無線周波数を準備し、123便にその周波数に変えるよう求めたが、応答はなかった。

42分:逆に123便を除く全機に対してその周波数に変更するよう求め、交信は指示があるまで避けるように求めたが、一部の航空機は通常周波数で交信を続けたため、管制部は交信をする機に個別で指示し続けた。

45分:無線のやり取りを傍受していた在日米軍横田基地 (RAPCON) が123便の支援に乗り出し、123便にアメリカ軍が用意した周波数に変更するよう求めたが、123便からは「操縦不能」との声が返ってきた。ACCが「東京アプローチ(羽田空港の入域管制無線)と交信するか」と123便に提案するが、123便は拒んだ。

47分:123便は千葉の木更津へレーダー誘導するよう求め、東京ACCは真東へ進むよう指示し、「操縦可能か」と質問すると、123便から「アンコントローラブル(操縦不能)」と返答がきた。その後、ACCは東京アプローチの無線周波数へ変更するよう求め、123便は了承した。

48分:無言で123便から機長の荒い呼吸音が記録されている。

49分:JALがカンパニーラジオ(社内専用無線)で3分間呼び出しを行ったが、応答はなかった。

53分:東京ACCが123便を呼び出した。123便から「アンコントロール」と無線が入ってくる。ACCと横田の RAPCON が返答、RAPCON は、横田基地が緊急着陸の受け入れ準備に入っていると返答。東京ACCも東京アプローチの無線周波数へ変更するよう求め、123便が了承する。

54分:JALも呼び出しを行ったが応答はなかった。123便から現在地を尋ねられ、東京ACCが羽田から55マイル (100km) 北西で、熊谷から25マイル (45km) 西と告げる。

55分:(この時だけ「日本語にて申し上げます」と前置きして)東京アプローチから羽田と横田が緊急着陸準備を行っておりいつでも最優先で着陸できると知らせ、航空機関士が「はい了解しました」と返答する。この言葉が123便からの最後の交信となった。その直後に東京アプローチが123便に対し、今後の意向を尋ねたが応答はなかった。その後も56分前まで東京アプローチと横田の RAPCON が123便に対して呼び出しを行ったが応答はないままだった。

57分:横田の RAPCON が123便に対し、「貴機は横田の北西35マイル (65km) 地点におり、横田基地に最優先で着陸できる」と呼びかけ、東京アプローチも123便に対して横田基地に周波数を変更するよう求めたが、この時、すでに123便は墜落していた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%88%AA%E7%A9%BA123%E4%BE%BF%E5%A2%9C%E8%90%BD%E4%BA%8B%E6%95%85

捜索・救難活動

墜落現場では救助を待つ生存者がいたのだが、墜落場所の特定、救助の開始には時間を要した。

18時28分ごろ、千葉県愛宕山の航空自衛隊中部航空警戒管制団第44警戒隊(通称「嶺岡山レーダーサイト」)でも123便の緊急事態をあらわす「スコーク7700」を受信した。ただちに直属部隊である中部航空方面隊に報告され、航空自衛隊中央救難調整所(RCC)が開設された。18時56分、嶺岡山レーダーサイト当直司令は123便が墜落したと判断して、中部航空方面隊司令部にスクランブル待機中のF-4EJファントムによる緊急発進を提案した。19時01分、提案を了承した基地司令官の指示で百里基地よりF-4戦闘機が離陸した。

東京航空局東京空港事務所(羽田)は、123便の緊急事態発生を受けて東京救難調整本部(TRCC)を設置し、同機の緊急着陸体制を整えた。その後、東京管制部のレーダーから消失(18時59分に受領)という事態となり、東京救難調整本部は、防衛庁、警察庁、消防庁、海上保安庁などの関係機関に通報(19時03分)し、123便の捜索に当たった。一方、レーダー消失直後は、まだ同機が低空飛行を続けている可能性も残されていたため、管制や社内無線からの呼びかけも続けられた。 墜落から約20分後の19時15分ごろ、米空軍のC-130輸送機が、群馬・長野県境付近の山中に、大きな火災を発見と上空位置での横田タカン方位(305度)・距離(34マイル)を航空自衛隊中央救難調整所に通報。19時21分ごろ、航空自衛隊の百里基地を緊急発進したF-4戦闘機の2機も墜落現場の火災を発見して、上空位置での横田タカン方位(300度)・距離(32マイル)を通報した。これらの航空機が通報に利用した「横田TACAN」とは、設置された極超短波電波標識(超短波全方向式無線標識)などを基準にした方位と距離から現場の上空位置を搭載の距離測定装置で測定したものである。本来これらの設備や機器は航空機の航法用として用いられている。

墜落から約1時間後の19時54分に、救難・救助のため見切り発進した百里基地救難隊のKV-107ヘリコプターは、46分後の20時42分に現場上空に到着した。20時33分になって、救難調整本部(東京空港事務所長)から航空自衛隊へ航空救難の要請(災害派遣要請)が行なわれた。しかし、当時のKV-107救難ヘリは両側面のバブルウィンドウ横に救難用ライト4灯を装備して夜間の救難作業は可能だったが、赤外線暗視装置などの本格的な夜間救難装備の無いことなどを理由に、事故当夜の救難員が降下しての救助活動は行われなかったとされている。事故機の遭難から約1時間40分後と、遅れて出された航空自衛隊への災害派遣要請の背景には、運輸省航空局東京空港事務所の幹部判断である「位置が確認できないことには、正式な出動要請はできん」などや運輸省よりの「レーダーから消えた地点を特定せよ」と何度も東京ACC(東京航空交通管制部)には電話が入るなど、所管行政当局である運輸省・航空局隷下組織の地上での位置・地点特定に固執した混乱や錯綜がうかがわれる。

陸上からは、群馬県警察・埼玉県警察・長野県警察が墜落現場の捜索にあたった。20時21分には、長野県警臼田署のパトカーが「埼玉県と群馬県境あたりに黒煙が見える」と通報。21時39分には埼玉・長野両県警のパトカーが三国峠の西北西に赤い煙を発見した。12日深夜までに、長野県警は墜落現場は群馬県側の山中であると発表した。しかし、氏名不詳の110番通報によりもたらされた「長野県北相木村のぶどう峠付近に墜落した」との情報や、日航による22時の広報では「御座山北斜面」、運輸省は事故現場の緯度経度(北緯36度02分、東経138度41分)の他に「長野県南佐久郡御座山北斜面」、朝日新聞では防衛庁からとして「現場は長野県の御座山北斜面」などの誤報がくりかえされ、これらの情報で地上からの捜索は混乱した。 消防・警察や災害派遣要請によって出動した航空自衛隊の地上捜索隊、陸上自衛隊の各捜索隊は、翌13日の朝まで現場に到達することはできなかった。なお、航空自衛隊第44警戒隊からの情報として、遭難当初から東京救難調整本部(運輸省航空局)より公表されていた遭難機のレーダー消失地点である「」は、御巣鷹山から北側約2.0kmの群馬県側になるが、根拠のない情報として「長野県南佐久郡北相木村」、「御座山北斜面」が付加され、これにより緯度・経度情報が地上捜索隊の活動に生かされることはなかった。

海上では、乗客が機外に吸い出された可能性があることから、東京救難調整本部の通報を受けた海上保安庁の巡視艇3隻が駿河湾周辺の捜索を行った。

8月13日午前4時30分過ぎの航空自衛隊救難隊による「墜落機体の発見」、続く5時10分の陸上自衛隊ヘリによる機体確認、5時37分の長野県警ヘリによる墜落現場の確認と、各自衛隊や警察のヘリによって次々と墜落現場の状況が確認された

墜落からおよそ14時間が過ぎた午前8時半に、長野県警機動隊員2名がヘリコプターから現場付近にラペリング降下し、その後陸上自衛隊第1空挺団員が現場に降下して救難活動を開始。陸路からは、上野村消防団、群馬県警機動隊、警視庁機動隊、陸上自衛隊、多野藤岡広域消防本部藤岡消防署の救助隊が現場に到着し、ようやく本格的な救難活動が開始された。

http://dic.gree.net/entry/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%88%AA%E7%A9%BA123%E4%BE%BF%E5%A2%9C%E8%90%BD%E4%BA%8B%E6%95%85/%E6%8D%9C%E7%B4%A2%E3%83%BB%E6%95%91%E9%9B%A3%E6%B4%BB%E5%8B%95

乗客

事故が発生した日は夏休み中で、「お盆の入り」の前日であった。同便には出張帰りのビジネスマンのほか、帰省客や観光客が多く搭乗した。最終便が満席で乗れない客が発生することを防ぐ理由もあり、最終便1本前である同便は、ほぼ満席の状態だった。

生存者は4人であった(デッドヘッド客室乗務員の26歳女性、34歳女性と8歳女性の母子、12歳女性)。救援隊の到着時に、現場で実際何人が生存していたのかについては、情報が錯綜した。生存者4名は発見から数時間は現場からのヘリ搬送が行われず、特に34歳女性と8歳女性の母子はたいへんな重傷で、猛暑の中体力を消耗した。

捜索隊による生存者か遺体かの判別は、呼びかけたり叩いた時に反応があるか手で触って脈があるかなどで行われていた。生存者発見後に医師・看護師が墜落現場へヘリで派遣、生存者4名が病院に搬送され、それ以外は遺体として藤岡市民体育館へ運ばれた。

著名人やその関係者

坂本九(歌手)
北原遥子(女優・元宝塚歌劇団娘役)
中埜肇(阪神電気鉄道専務取締役鉄道事業本部長・阪神タイガース球団社長)
浦上郁夫(ハウス食品代表取締役社長)
塚原仲晃(医学博士・大阪大学基礎工学部教授)
辻昌憲(元自転車競技選手・シマノレーシング監督)
竹下元章(元広島カープ捕手)
藤島克彦(コピーライター)
緋本こりん(同人漫画家)

; 関係者
伊勢ヶ濱親方(大相撲・元大関・清國勝雄)の妻子
吹田明日香(タレント)の母
ダイアナ湯川(バイオリニスト)の父(銀行家)※ダイアナ湯川自身の出生は、事故から1カ月後。 など。

http://dic.gree.net/entry/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%88%AA%E7%A9%BA123%E4%BE%BF%E5%A2%9C%E8%90%BD%E4%BA%8B%E6%95%85/%E4%B9%97%E5%AE%A2

△…落合由美さん  □…川上慶子さん  ○…吉崎博子さん・美紀子さん親子

事故原因

事故調査報告書による事故原因は以下の通り。

直接的な原因は、金属疲労による後部圧力隔壁の破損によるものだが、過去の修理記録を調査した結果、1978年、伊丹空港で着陸時に機体後部を滑走路に擦り付ける「しりもち事故」を起こしていた。その際、後部圧力隔壁を含む機体後部が破損した為、ボーイング社の技師によって修理されていた。その修理にミスがあったのだ。

この修理では、交換した隔壁下部と上部それぞれのバルクヘッドをつなぎ合わせる際、結合板が1枚挟み込まれ、3列のリベットで止める。こうする事で、結合板を介して上部に2列分のリベットが効き、下部にも2列分のリベットが効く。これが正しい修理方法である。

ところが、その結合板が2枚にカットされていた。この機材の場合、上部にリベット2列分、下部に1列分の2枚。これでは1列分のリベットしか効かず、接続強度が不足し金属疲労を早めてしまう。

その状態で7年間飛び続けた上、点検でこれらの異常を発見できなかった為、金属疲労が加速。遂に限界に達し、後部圧力隔壁の破壊に繋がった。


http://dic.nicovideo.jp/a/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%88%AA%E7%A9%BAjal123%E4%BE%BF%E5%A2%9C%E8%90%BD%E4%BA%8B%E6%95%85

日航機墜落事故で亡くなった人の遺書とメモ書き

死を覚悟して家族宛に書かれた遺書、不時着に備えて、機内アナウンス原
稿を書いたメモが残されていた。これらは現在、羽田空港内の日本航空安全
啓発センターで展示されている。

河口博次 さん(52)

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