1. まとめトップ

この記事は私がまとめました

romonさん

伝説のランナー誕生

1940年(昭和15年)5月13日生まれ

福島県岩瀬郡須賀川町(現・須賀川市)出身

農家の7人きょうだいの末っ子。「カラッとしていて人がいいから、誰からもめんごがられた(愛された)。悪いことはせず、働くのに体を惜しまなかった」と、兄は言う。

東北人らしい粘り強さ、親譲りの勤勉さ、我慢強さ…。円谷は長距離走者として必要な資質を持っていた。

「振り返るな」という父の教えを守り、レース中は一度も振り返ることなく、ただひたすら前を向いて走った。

東京五輪へ

県立須賀川高校2年生の夏、福島縦断駅伝の代走を務めた際に、区間新記録を出したことを機に、本格的な陸上競技への道を歩み始める。

高校卒業後、陸上自衛隊へ入隊。その後、メダリスト養成所といわれた自衛隊体育学校へ入学。

円谷の才能に目をつけたコーチが、腰の負担を軽くする走り方にフォームを直した。円谷はコーチの献身的な指導についていき、その成果は目に見えて現れた。

東京オリンピック候補選手記録会では、1万メートルで世界最高記録をマーク、マラソンで第2位を記録。こうして初マラソンから僅か7ヶ月で、栄光の舞台に進むことになった。

銅メダル獲得

東京五輪男子マラソンは序盤から高速レースの様相を呈した。円谷は25キロ地点で4位、30キロで3位通過、36キロで2位に浮上し、そのまま国立競技場へ。

走り終えた円谷はこう語っていた。「私1人が走っているのではなく、日本国民全部の人が後ろから私を押していてくれるという感じを受けました」。

堂々の3位。栄光の銅メダルを獲得した。人々は円谷の力走に感動し大いなる拍手を送った。東京オリンピックのヒーローとなり、各地で大歓迎された。

持病と怪我

さらに左足、そして右足と続けざまの、アキレス腱切断というけがに見舞われた。

手術を受け、次のメキシコオリンピックに向けて練習に励むが、病状は一向に良くならなかった。

恋人、コーチとの別れ

自殺

メキシコ五輪を控え、けがからの再起を誓う一方、手術後も思うように回復が進まないことへの焦燥感もにじんだ。

1 2