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【ペリリューの戦い】日本人が知らなければならない大東亜戦争の真実

国のために尊い命を捧げて、命に代えてパラオのペリリュー島民を守り抜いた日本兵。現在でもパラオの長老たちは日本のことを「内地」と呼び、世界で最も親日感情が高い国、といっても過言ではないのです。戦後69年が経ち、日本人が知らなければならない大東亜戦争の真実です。 #終戦記念日

更新日: 2016年04月19日

tomobeachさん

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1919年、第一次世界大戦の戦後処理をする「パリ講和会議」によって、パラオは日本国の委任統治領になりました。

パラオと聞けば、「南洋の平和な島」とのイメージをお持ちの方は多いでしょう。

パラオは第一次世界大戦後に国際連盟による日本の委任統治領となり、1922年南洋庁がコロール島に設置されて内南洋の行政の中心となっていた。

日本からパラオまでは、飛行機の直行便で約4時間、グアム経由では乗り継ぎ時間を含め約8時間で行けます。

パラオには、スキューバーダイビングなど観光スポットも多くあるので、毎年多くの日本人が訪れています。

日本の、委任統治時代

日本は委任統治時代にパラオで、ドイツの植民地時代にはほとんど行われなかった、学校・病院・道路などインフラの整備も重点的に行ないました。

日本人はパラオに米食の習慣を定着させ、なすやきゅうりなど野菜やサトウキビ、パイナップルなどの農業を持ち込み、マグロの缶詰やカツオ節などの工場を作って雇用を創出した。道路を舗装し、島々を結ぶ橋をかけ、電気を通し、電話を引いた。

道路を舗装し、島々を結ぶ橋をかけ、電気を通し、電話を引いた。パラオの首都のコロールなども、近代的な都市へと変貌されました。

パラオには、「ペリリュー島」というパラオ諸島の島があります。



南北9キロ・東西3キロ・高さ80メートル・全体で20平方キロの珊瑚礁からできた太平洋上の小島です。

南北9キロ・東西3キロ・高さ80メートル・全体で20平方キロの珊瑚礁からできた太平洋上の小島です。

このペリリュー島では、大東亜戦争末期に、日米両軍によって実に73日間にも亘る死闘が繰り返されました。

ペリリュー島には現住民が住んでおり、島民たちは日本を尊敬していたので、大人も子供も日本軍と一緒に戦う決意をしていました。

米軍は、日本軍の兵力の約4倍・航空機200倍・戦車10倍・重火砲100倍以上の軍事力でした。

戦闘が終局に達していた11月24日、生き残った日本将兵はわずか60人足らずとなりました。



ついに、日本軍総司令部陣地の兵力弾薬もほとんど底をついたために、司令部は玉砕を決定しました。



守備隊長の中川州男大佐、師団派遣参謀の村井権治郎少将、飯田義栄中佐の割腹自決の後、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が送られました。

しかし、ペリリュー島で、壮絶で長い戦闘が繰り広げられたにもかかわらず、ペリリュー島の民間人には、ただの1人の犠牲者もでませんでした。

日本軍
戦死者 10,695名
捕虜 202名

アメリカ軍
戦死者 1,794名
戦傷者 8,010名 ※この他に精神に異常をきたした者が数千名いた。

一般人民
陣地構築に徴用されていたが、日本軍が戦闘前に強制退避させたため死者・負傷者ともに0名とされる。

これは、日本軍が「ペリリュー島民を戦火に巻き込んではならない」と指令をだしていたからです。

日本人が知らなければならない大東亜戦争の真実です。

ペリリュー島の戦いが終って島に戻った住民は、多くの日本兵の遺体を見て泣きました。

「アメリカ人は日本人の遺体には見向きもせず、自国兵の遺体だけを整理した。ここに征服民族の本性を見る」

1944年9月2日、日本軍に殺害された戦友の死体を搬送する米軍第1歩兵師団。

住民はこぞって日本兵の遺体を葬りました。





そして、日本の人達がいつ来てもよいようにと、その後も墓地の清掃に心掛けました。

この当時の様子を知る、ペリリュー島民の老人のコラム(毎日新聞)が残っています。

遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。



「あそこでみんな死んでいったんだ・・・」



沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。



太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。

老人は村の若者達と共にその作業に参加した。

日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。



やがて戦況は日本に不利となり、いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。

仲間達と話し合った彼は代表数人と共に日本の守備隊長のもとを訪れた。

「自分達も一緒に戦わせて欲しい」と。



それを聞くなり隊長は激高し叫んだという。

「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」



日本人は仲間だと思っていたのに・・・。

みせかけだったのか。

裏切られた想いで、みな悔し涙を流した・・・。



船に乗って島を去る日、日本兵は誰一人見送りに来ない。

村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。



しかし、船が島を離れた瞬間に日本兵全員が浜に走り出てきた。

そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。

先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。



その瞬間、彼は悟ったという。

あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと・・・。

大東亜戦争終結後、パラオなど南洋の島々は米国の統治領となりました。

大東亜戦争終結により日本が立ち去った後、パラオの公用語は英語に変わり、アメリカによる目に余る反日教育が行われました。



歴史の授業では、米国で作られた教科書が使われ、日本人による「パラオ人虐殺事件」などの掲載された、反日的歴史教科書もありました。



ところが、パラオの年長者が「そんな話しはない」と否定したため、この疑わしい史実はパラオには浸透しませんでした。

パラオがアメリカから独立した際、定められた「国旗」は、一般国民から公募した70数点の中で「青い太平洋に浮かぶ、黄色い月」が一番の人気でした。

パラオでは、この国旗について伝えられるエピソードがあります。

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