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第二次世界大戦の独ソ戦がヤバい!ドイツ軍のソ連侵攻(バルバロッサ作戦)で、ソ連の戦死者2000万人

1939年8月にドイツとソ連の間で独ソ不可侵条約が締結されました。それから2年後の1941年6月には、ドイツが独ソ不可侵条約を破って、ソ連国内に侵攻します。しかしながら、ソ連軍の粘り強さにドイツ軍が兵力を減らしていく事になり、逆にソ連にドイツ国内に侵攻されました。

更新日: 2014年08月19日

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misukiruさん

ソ連の軍人・民間人の死傷者の総計は第二次世界大戦における全ての交戦国の中で最も多いと言われている。

独ソ不可侵条約(1939年8月)

ドイツとソ連でポーランドを2分する計画を立てていました。

8月23日、ドイツ総統ヒトラーは、ポーランド侵攻によってソ連と衝突することを避けるため、ソ連と不可侵条約を締結しました(独ソ不可侵条約)。

第二次大戦勃発1週間前,1939年8月23日に締結された独ソ不可侵条約では,ポーランドをヴィスワ川の線で独ソ二分割することが密約

フランスによるドイツへの宣戦布告

歩兵の突撃は機関銃で阻止できる、と考えていた訳で、だからフランスはドイツを攻めるよりも、マジノ線という要塞の強化を通じて来るべきドイツ軍の侵攻に備えようとしていた

ドイツは当時既に航空戦力や機甲師団などを充実させて電撃戦の準備を整えていたからで、時代は既に攻撃の方が防御よりも優位な段階に入っていたから

パリの陥落とフランスの降伏

パリは、無防備都市宣言を出された事によって、都市全体の破壊をまぬがれる事ができました。

ドイツの同盟国であるイタリアは、フランスの壊滅が決定的にならないと参戦しないという方針でしたのでライン川上流から始まる攻勢とマジノ線正面への攻勢を実施することになりました。

フランス政府はパリ防衛は不可能と判断して、6月10日パリを捨てて遷都します。同日パリは無防備都市宣言をしました。

ドイツ軍によるソ連侵攻

ドイツ軍は、独ソ不可侵条約を破って、ソ連の国内に進行を開始します。

第二次世界大戦中の1941年6月22日に開始されたナチス・ドイツによるソビエト連邦奇襲攻撃作戦

10月中旬に南方軍集団はキエフを占領し、650,000人を超える捕虜を連行した。その多くはナチの強制収容所で死んだ。

赤軍の装備していたKV-1重戦車とT-34中戦車は、ドイツのいかなる戦車よりも強力であり、戦車戦術のエキスパートと自他共に認めていたドイツ軍に大きな衝撃を与えた。

チャーチル英首相は,英本土航空決戦,大西洋の対潜水艦戦争,そして米国の参戦を引き出すことに懸命だった。しかし,独ソ戦の勃発に,英国の危機は遠のいたと大喜び

弱体化していたソ連軍

ヨシフ・スターリンは、1930年代後半に党や軍における反対派の大粛清を強行しており、経験豊富で有能な陸軍指導部を含む何百万もの人々を処刑していたため、軍は弱体化し、指揮官不足

ヒトラーは,ソ連軍を弱体化していると見ていた。対ソ戦は,「腐った納屋を蹴り飛ばすようなもの」であり,1941年中に,8週間程度で決着がつくと考えていた。

1941年6月22日,独ソ戦が勃発すると,英米は即時にソ連に対する軍事援助を申し出た。

弱体化したドイツ軍

人的資源が限られているドイツにおいて、今後のソ連との戦いは、奇襲も出来ず開戦時以下の戦力でしか行えないものであった。

生産力が低く損失の補充すらままならない枢軸軍は、見かけの部隊数を増やすために連隊あたりの戦車を減らしたり、後方の部隊には旧式の戦車を配備

1941年末には,ソ連軍の頑強な抵抗を受けて,攻撃は停滞,ソ連軍の冬季攻勢を受けた。

スターリングラード攻防戦

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