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[中学歴史]自由民権運動とは?[高校日本史]

自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)を解説します。 高校受験の受験勉強に活用できるといいですね。

更新日: 2017年05月12日

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hogehogemanさん

自由民権運動とは

自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)とは、明治時代の日本において行われた政治運動・社会運動。

明治前期、藩閥政治に反対して国民の自由と権利を要求した政治運動。明治7年(1874)の板垣退助らによる民撰議院設立建白書の提出に始まり、国会の開設を要求する運動として全国的に広がった。のち、自由党・立憲改進党が結成され、組織的な運動を展開したが、福島事件・秩父事件などが鎮圧されるなかで衰退していった。

自由民権運動といえば、板垣退助ですね。彼は、征韓論争(明治6年の政変)に敗れ、1873年には政府から去っていました。
しかし、完全に政治の世界から足を洗ったわけではなかったんです。1874年には、地元の土佐に政治結社、立志社をつくり、当時薩摩藩や長州藩など一部の藩の人間のみが政治を行っていることを批判。「国民が選んだ議員に政治を任せるべきだ」と主張します(民選議員設立の建白書)。
これが、自由民権運動の始まりです。

板垣退助ら民権派が積極的に行ったのが演説会です。日本各地をまわり、自由や権利について分かり易い言葉で人々に語りかけました。こうした演説会を続けることで、自由民権の結社数は、全国で2000を超えるまでになりました。
政府は新聞雑誌の発行を許可制にして弾圧演説会も許可制に
これに対し、政府は「新聞紙条例」によって弾圧政策を行います。「新聞や雑誌の発行は、政府の許可を得なければならない」とし、さらには政府によって新聞雑誌の停止、禁止ができるようになります。
政府はさらに、「集会条例」を制定し、政治に関する演説会を許可制にします。集会には警察官が立ち会い、内容によっては中止や解散を命じることが出来るようにしました。条例によって板垣らの集会には認可が下りなくなります。
さらに板垣は、ある日の演説後、暴漢に襲われます。
板垣は重傷を負いながらも、「板垣死ストモ 自由ハ死セズ」と言ったと伝えられています。
この言葉は人々の間に「自由」という言葉を浸透させ、国会開設運動を加速させていきました。

板垣退助とは

板垣 退助(いたがき たいすけ、天保8年4月17日(1837年5月21日) - 大正8年(1919年)7月16日)は、日本の武士(土佐藩士)、政治家。幼名は猪之助。退助は元は通称。諱は初め正躬(まさみ)、のち正形(まさかた)。号は無形(むけい)。栄典は従一位勲一等伯爵。土佐三伯の一人(他に後藤象二郎・佐々木高行)。
自由民権運動の主導者として知られ、「庶民派」の政治家として国民から圧倒的な支持を受けていた。薨去後も民主政治の草分けとして人気が高く、第二次世界大戦後は50銭政府紙幣、日本銀行券B100円券に肖像が用いられた。

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参考リンク

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