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[信長協奏曲]池田恒興とは?向井理[信長家臣]

織田信長の家臣「池田恒興」(いけだつねおき)についてまとめます。清須会議(清洲会議)、信長協奏曲、NHK大河ドラマ、向井理、佐藤浩市、興津和幸、他 信長コンチェルト(小栗旬主演)

更新日: 2017年04月23日

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hogehogemanさん

池田恒興とは

天文5年(1536年)、尾張織田氏家臣・池田恒利の子として誕生。

名称:勝三郎、経与、信輝、
    勝入、紀伊守

母は織田信長の乳母であり、信長の父の織田信秀と再婚して側室となっているため、恒興は信長とは乳兄弟であり同時に義理の兄弟にあたる。

幼少の頃から小姓として織田氏に仕え、桶狭間の戦い、美濃攻略などで戦い、元亀元年(1570年)の姉川の戦いで活躍し、犬山城主となり1万貫を与えられた。

比叡山焼き討ち、長島一向一揆、長篠の戦いなど信長の主だった戦に参陣、天正8年(1580年)には信長に抵抗し摂津花隈城に籠もる荒木村重を破り、その旧領を領する。天正10年(1582年)、甲州征伐で武田氏が滅亡するが、密かに落ち延びた武田勝頼の3男・勝親を匿い保護した。

本能寺の変にて信長が家臣の明智光秀に討たれると、中国攻めから引き返した羽柴秀吉に合流。山崎の戦いは兵4,000を率いて右翼先鋒を務めて光秀を破り、織田家の宿老に列した。

織田家の後継を巡る清洲会議では、柴田勝家らに対抗して、秀吉・丹羽長秀と共に信長嫡孫の三法師(織田秀信)を擁立し、領地の再分配では摂津の内大坂・尼崎・兵庫において12万石を領有した。翌天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いには参戦していないが、美濃にて13万石を拝領し大垣城主となる。

天正12年(1584年)、徳川家康・織田信雄との小牧・長久手の戦いでは、去就が注目されたが結局は秀吉方として参戦。

参考リンク

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