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[信長家臣]滝川一益とは?[戦国武将]

織田信長の家臣「滝川一益」(たきがわかずます、たきがわいちます)についてまとめます。

更新日: 2017年04月16日

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hogehogemanさん

滝川一益とは

滝川 一益(たきがわ いちます / かずます)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。織田氏の家臣。織田四天王の一人。

大永5年(1525年)、滝川一勝もしくは滝川資清の子として生まれたが、尾張の織田信長に仕えるまでの半生は不明である。父が甲賀出身であるとする立場からは近江の六角氏に仕えていたとされることもある。江戸時代に水戸藩の佐々宗淳から織田長清に送られた書状によれば、滝川家はそれなりに由緒ある家だったが、一益は博打を好んで不行跡を重ね、一族に追放され、尾張津島の知人のところに身を寄せたという。信長に仕えた時期は不明であるが『信長公記』首巻によると、信長が踊りを興行した際、「滝川左近衆」が餓鬼の役を務めたという記述があり、この時期には既に信長の家臣であったようである。『寛永諸家系図伝』には「幼年より鉄炮に長す。河州にをひて一族高安某を殺し、去て他邦にゆき、勇名をあらはす」とあり、鉄砲の腕前により仕官したという説もある。

永禄3年(1560年)、一益は「北伊勢の桑名は美濃との境であり、患となる可能性があるため、桑名長島の地を得、北畠氏や関氏に対し備えようと思う」と信長に進言、まずは尾張荷ノ上の土豪で長島城主・服部友貞の資金によって蟹江城を構築、やがて友貞を放逐し、蟹江城主となる。永禄6年(1563年)には松平家康(後に徳川に改姓)との同盟交渉役を担う(清洲同盟)。
永禄10年(1567年)、永禄11年(1568年)の2度に渡る伊勢攻略の際には攻略の先鋒として活躍しており、源浄院主玄(後の滝川雄利)を通じ北畠具教の弟・木造具政を調略、具教が大河内城を明け渡した際には城の受け取りを任され、戦後は安濃津・渋見・木造の三城を守備することを命じられた。

元亀元年(1570年)9月の石山本願寺の反信長蜂起に伴う石山合戦の開始で長島一向一揆も一斉に蜂起し、11月には信長の弟・織田信興が小木江城で討ちとられ、一益も桑名城に篭っている。その後、北伊勢で長島一向一揆と対峙しつつ、尾張守備、更に遊軍として各地を転戦することとなる。

天正元年(1573年)の一乗谷城の戦いに参戦。天正2年(1574年)、3度目にあたる長島一向一揆鎮圧に際しては九鬼嘉隆らと共に水軍を率い、海上から射撃を行うなどして織田軍を援護、この功により長島城及び、北伊勢8郡のうちの5郡を拝領している。

天正3年(1575年)、長篠の戦いに参陣、鉄砲隊の総指揮を執る。また同年には越前一向一揆を攻略。天正4年(1576年)の天王寺合戦、同5年(1577年)の紀州征伐に参陣。天正6年(1578年)の第二次木津川口の戦いでは、九鬼嘉隆率いる黒船6隻と共に一益の白船1隻が出陣しており、鉄甲船建造に関わっている。天正7年(1579年)11月まで続いた有岡城の戦いでは上﨟塚砦の守将を調略し、有岡城の守備を崩壊させた。この2つの敗戦により、石山本願寺への兵糧や武器の搬入は滞るようになり、翌年4月、本願寺法主・顕如は信長に降伏することとなる。
天正8年(1580年)、小田原城主・北条氏政が信長に使者を送った際には武井夕庵・佐久間信盛と並んで関東衆の申次を命ぜられる。この年に佐久間信盛が追放されたことから、関東衆、特に後北条氏の申次は一益が行うことになり、翌年に氏政が信長に鷹を献上した際にも申次を務めている。天正9年(1581年)には伊賀攻めに参陣し、甲賀口より攻め込んでいる。

天正10(1582)年の武田勝頼攻めのときの功により,上野国と信濃国のうち佐久郡,小県郡を与えられ,厩橋城の城主となり,同時に関東管領を命ぜられる。

信長から褒美としてもらえると期待していた珠光小茄子(茶入れ)がもらえず,「茶の湯の冥加もつき果てた」と茶の湯仲間に手紙で伝えたことは有名。

本能寺の変がおこり信長が殺されると,それまで信長サイドで動いていた北条氏政・氏直父子が上野の奪回に動き出し,武蔵・上野の国境を流れる神流川で両軍の戦いがおこり,一益は完敗して本領の伊勢長島に逃げ帰った。結果的にはこの行為がその後の一益の一生を決めたことになる。信長の後継者を決める清洲会議に一益は出席できず,この席上豊臣秀吉と対立した柴田勝家と共同行動をとることになったが,勝家が賤ケ岳の戦で敗れ,織田信孝も自刃させられたあと,北伊勢5郡を秀吉に差し出して降伏。秀吉は一益の子一時に1万2000石を与えて家督を継がせている。

滝川一益 家紋

参考リンク

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