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【軍師官兵衛】生田斗真演じる高山右近ってどんな人?

今回は大河ドラマ「軍師官兵衛」にも登場する高山右近についてまとめてみました。

更新日: 2014年08月29日

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ren12さん

大河ドラマ「軍師官兵衛」では生田斗真が熱演

実際はどんな人?

出典senjp.com

高山 右近(たかやま うこん)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。代表的なキリシタン大名として知られる。

高山氏は摂津国三島郡高山庄(現在の大阪府豊能郡豊能町高山)出身の国人領主である。父の友照(飛騨守を自称)が当主のころには当時畿内で大きな勢力を振るった三好長慶に仕え、三好氏の重臣松永久秀にしたがって大和国宇陀郡の沢城(現在の奈良県宇陀市榛原)を居城とした。

松永 久秀(まつなが ひさひで)は、戦国時代の武将。大和国の戦国大名。初めは三好長慶に仕えたが、やがて三好家中で実力をつけ、室町幕府との折衝などで活躍した

父の影響でキリシタンに

右近は12歳のときに父飛騨守(洗礼名ダリオ)の影響で洗礼を受けた(洗礼名ユスト)

21歳のときに摂津国(大阪)高槻城主となって領民を信仰に導き宣教師を助けて教会に奉仕した。

右近が天正13年(1585年)に船上城へ転封されるまで過ごした。

荒木村重の反乱

荒木 村重(あらき むらしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。利休十哲の1人である。幼名を十二郎、後に弥介(または弥助)。荒木氏は波多野氏の一族とされ、先祖は藤原秀郷である。

右近は当時、荒木村重(あらきむらしげ)を直接の主君として仕えていた。それで荒木村重のもとには、右近の妹、およびまだ四歳の長男ジョアンが、人質として取られていた。ところが、荒木村重は突然、織田信長に向かって反旗をひるがえしたのである。

高槻城は要衝の地であったため、信長はここをまず落とそうとした。右近が金や地位では動かないと判断した信長は、右近が降らなければ畿内の宣教師とキリシタンを皆殺しにして、教会を壊滅させると脅迫する。

城内は徹底抗戦を訴える父・友照らと開城を求める派で真っ二つとなった。懊悩した右近はここにいたって城主を辞し、家族も捨てて紙衣一枚で城を出て、信長の前に出頭した。この功績を認めた信長によって、右近は再び高槻城主としての地位を安堵された上に、2万石から4万石に加増される異例の措置を受けた。

信長の死後

1589年に本能寺の変で明智光秀によって織田信長が暗殺されると羽柴秀吉に仕え山崎の戦いでは先鋒を務めた。

清州会議にてその働きが認められ、安土にあったセミナリオ(神学校)を高槻に迎えた。

高山右近記念聖堂とも呼ばれる

その後、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、四国征討などで活躍した。

キリスト教の弾圧と国外追放

1587年、秀吉は九州征討の途中「バテレン追放令」を発令。この時黒田官兵衛はキリスト教をやめたが、信仰の厚かった右近はキリスト教を続けた。

秀吉は茶人千利休などを遣わして右近の説得にあたったが、右近は信仰を貫いたため追放処分となった。

千利休(せん の りきゅう、せん りきゅう、大永2年(1522年) - 天正19年2月28日(1591年4月21日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人。わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称せられる。また、今井宗久・津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠と称せられた。

追放後、小西行長や前田利家などの庇護をうけて暮らしていた。

小西 行長(こにし ゆきなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。洗礼名アウグスティヌスを持つキリシタン大名でもある。一時期は宇喜多氏に仕え、後に豊臣秀吉の家臣となる。文禄・慶長の役の際、加藤清正と先陣を争ったことでも有名である。関ヶ原の戦いにおいては西軍の将として奮戦したが敗北し、切腹を拒否して斬首された。

前田 利家(まえだ としいえ)とは、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。加賀藩主前田氏の祖。豊臣政権の五大老の一人。

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