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100歳にして30年分の木材を買い込む 意欲溢れる彫刻家 平櫛田中(ひらくしでんちゅう)

岡山県に生まれた近代日本を代表する彫刻家平櫛田中についてまとめています。107歳でその生涯を閉じるまで、衰えることない制作意欲が生み出しだ作品をご覧ください。田中のエピソードや言葉などもまとめています。

更新日: 2014年09月01日

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JSCさん

平櫛田中(ひらくしでんちゅう)について

1872年(明治5年)、現在の岡山県井原市、田中家の子どもとして生まれる。本名は倬太郎(たくたろう)。
1882年(明治15年)、田中家から平櫛家の養子に入った後田中(でんちゅう)と号する。
1893年(明治26年)から大阪の人形師・中谷省古彫刻修業をし、その後上京して高村光雲の門下生となる。
岡倉天心と西山禾山に思想的な影響を受け、仏教説話や中国の故事などを題材にした精神性の強い作品を制作。
1962年(昭和37年)、文化勲章受章。
1979年(昭和54年)、107歳でその生涯を閉じる。

代表作は《鏡獅子》、《烏有先生》、《転生》《五浦釣人》など。

平櫛田中の作品

6代目尾上菊五郎をモデルに、戦中のブランクを経て、22年の歳月をかけて完成した。
この大作は現在、国立劇場の正面ホールに展示されている。

田中は、大作「鏡獅子」を作成するとき、モデルの六代目菊五郎が公演している歌舞伎座 に、25日間通いつめ、いろいろな角度から舞姿を観察しました。

モデルを見つめるときの田中の目のすわり、着眼の厳しさ、的確さは、「まるで踊りの名人の目だね」と菊五郎が語ったといいます。

モデルは酒好きな人力車夫田畑辰三という人で、旗本の次男坊として生まれ、剣のかなりの使い手であったが、学問が無かったため、維新後は官途につけず落ちぶれてしまっていた。田中はその逸民(いつみん)ともいうべき人柄に惹(ひ)かれ、彼をモデルにしたが、どうにも題のつけようがなく、しかたなく「いづく烏んぞあ有らんや」、つまり「何でもない」という意味で、烏有先生と名づけた。

生ぬるい人間を食べた鬼がそのまずさに吐き出した様を作ったもの。生ぬるい仕事を戒める思いを込めて制作したものと考えられる。

五浦(茨城県北茨城市)の海岸で、釣りにでかける岡倉天心を撮影した写真をもとに制作したもの

天心がこの竿で院展の俊英たちを釣り上げるという意味が込められています。

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