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【悲惨】太平洋戦争インパール作戦

太平洋戦争にて無謀な作戦(インパール作戦)が行われた事実を皆さんに知っていただきたくまとめてみました。

更新日: 2014年09月04日

ジョパーさん

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インパール作戦

インパール作戦とは、1944年(昭和19年)3月に日本陸軍により開始され7月初旬まで継続された、援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のことである。

補給線を軽視した杜撰(ずさん)な作戦により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫し、無謀な作戦の代名詞として現代でもしばしば引用される。

68年前の昭和19年3月、日本軍は3個師団を繰り出して、連合軍の反攻の中心地であるインド・マニプル州の州都インパールを攻略する作戦を開始した。前年から始まった連合軍の反攻を食い止め、中国・国民党政府への援助を遮断するためだった。

インパール作戦は、当初から無謀な作戦であると反対意見が多かったにもかかわらず、牟田口軍司令官によって強引に進められ、戦闘中に師団司令官が独自に撤退を決めたり、更迭されたりするなど特異な事態が出現、戦後も長きにわたって批判された。

インパール作戦を指示した人物

牟田口 廉也(むたぐち れんや、1888年(明治21年)10月7日 - 1966年(昭和41年)8月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は中将。盧溝橋事件や、太平洋戦争(大東亜戦争)開戦時のマレー作戦や同戦争中のインパール作戦において部隊を指揮した。

牟田口は1943年(昭和18年)3月に第15軍司令官に就任し、1944年(昭和19年)3月から開始されたインパール作戦では、ジャングルと2,000m級の山々が連なる山岳地帯での作戦を立案した。この作戦に対しては当初、上部軍である南方軍司令官や第15軍の参謀、隷下師団のほぼ全員が、補給が不可能という理由から反対した[7]。しかしながら戦局の打開を期待する軍上層部の意向に後押しされる形で、最終的にはこの作戦の実施は決定されることとなった

ジンギスカン作戦

昭和19年1月7日に「インパール作戦」が正式に発令されたのち、第15軍下の3個師団は急ぎその準備を進めていた。いちばん険しい北側のルートを進むことになっていた第31師団は、補給のための自動道路の開設と、物資の集積に懸命だった。それともう一つ、五千頭もの牛の訓練に追われていた。牟田口司令官は、現地の農民から一万頭以上の牛や羊を調達せよという命令を出していた。それらの動物に物資を運搬させ、目的地に着いたのちは食糧にしようという計画で「ジンギスカン作戦」と自画自賛した。だが、この牛の群が、逆にイギス軍に作戦を察知される要因にもなった

白骨街道

インパールを攻める目的で派兵された(インパール作戦)日本軍10万人のうち、ほとんどの兵は飢餓と病気で亡くなり、退却路に白骨を晒したということからついた名称

飢えで自決

ラングーン港からビルマ各地を移動中、トラに食われた無惨な戦友の姿を見た。悪性マラリアのため、高熱と下痢で奈落の底に突き落とされた、死の谷といわれたアラカン山脈の中ほどにあるシンゴダインでは、やっとたどりついた戦友がつぎつぎと死んでいった

シッタン河の渡河作戦では五〇%は流され、下流には万を超える死体が流され、黒いハゲタカがその死体に群がった。また、先行していた兵士が地雷にやられ、死体があちこちに散らばっているなかを移動したときは、足が飛ばされ上半身だけが倒れぬままの死体にハエが群がり黒いダルマのようになっていた。仰向けの死体の口から稲が生えていたものも見た。私は偵察任務に出てついに歩けなくなり、座り込んでしまい、自決を決意し手榴弾の安全弁をぬいてたたきつけようとして昏睡した

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ジョパーさん

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