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この記事は私がまとめました

mototchenさん

アリには怠けることが必要

江戸時代

日本人は昔から勤勉であるとされていた

それでは江戸時代の実態は?

「彼らは給与が得れる仕事に就くことは大変熱心であったが、その仕事に要求される厳格な内容に関してはまるで無関心であった。これは上級の役人も見られた現象である。彼らは業務に必要な規律が守られてなくてもまるで気にせず、この罰則すら履行しなかった。たまりかねて役人に苦情を述べると役人は彼らをかばい、言い訳をするのであった。また作業員は当直時に居眠りをしたり、職場を乱雑にしたり、飲酒をしたりすることもあり、これは日本人の灯台員に常に見られる職務怠慢の姿であった。ある灯台員が当直の時に灯火監視を怠り、職場を離れていたことを注意すると、「自宅から注意深く見ていた」といい加減な言い訳をするのであった」

またブラントンは37人を採用するため100人に試験を行ったところ、信頼して採用できるのはわずか9人しかいなかったと嘆いて

イギリス人の灯台技師、ブラントンの手記

「何もすることのない何もしていない人々、その数は日本ではかなり多いのだが、そんな人たちは火鉢の周りにうずくまって、お茶を飲み、小さな煙管を吸い、彼らの表情豊かな顔にハッキリと現れている満足げな様子で話をしたり、聞いたりしながら長い時間を過ごすのである。彼ら日本人の優しい気質、親切な礼儀作法そしてまた矯正不可能な怠惰を真に味わえるのは、こんな風に寄り集まった日本人に接する時である。仕事に対する愛情は日本人にあっては、誰にでも見られる美徳ではない。彼らのうちの多くは、まだ東洋に住んだことのないヨーロッパ人には考えもつかないほどに無精者である。」(スイス領事の見た幕末日本)

ヘボン(日本在住1859~92)は昼間っから酒を飲んで酔いつぶれ、あるいは大暴れしている人びとの多さに驚き、また酔って仕事もままならなくなる日本人家事使用人たちに悩まされている。せめて仕事中ぐらいは酒を飲まない労働者を雇えないかと日本人商人に尋ねるが、そんな日本人を見つけるのは難しいと言われて途方に暮れていた

江戸時代でも一番労働時間が少なかったのはお侍さんだ。朝方10時にはお城に出勤し、そして14時には城を出る。それが基本的な武士の生活だった。だが、戦国の時代には戦闘員としての価値があったお侍も、江戸時代になるとそれほど仕事があるわけでは無い。だが各大名としては、自身が基本的には戦闘員なので、もちろん人員を確保押しておく必要がある。なので4時間勤務。だが一般の人々とお侍の違うのは、日頃から自分を鍛錬しなくてはならないことだろう。勤務を終え帰宅したらそれから学問や武道などの時間となったようだ

鈴木淳さんによると、幕末の武士の勤務時間は10時から2時までで、しかも間に 昼休みが1時間。
驚くことに、明治維新後も中央官庁の役人は、同じ勤務シフトを明治19年まで続けていたのだそうです。

おおむね主君の城への「三番勤め」、つまり3日に1度の24時間勤務で、あとは学問と武芸の自主的修養・訓練にあてられた。

 なかには元禄期(17世紀末ー18世紀初め)に詳細な日記を残した尾張藩(現名古屋)の下級武士朝日文左衛門のように、9日に1度の城内勤務で、あとは自宅研修の名目で遊興にふけるという場合もあった。ただし、参勤交代といって主君である大名は隔年で江戸生活を送るため、それに随行する武士たちの場合は、家族と離れての単身赴任を余儀なくされた。

紀州藩の勤番武士、酒井伴四郎(さかいばんしろう)が江戸の生活を克明に記した「酒井伴四郎日記」(1860年)には6月から11月の半年間の勤務日数が記されています。そこには、月10日前後で7月は一日も勤めに出ておらず、勤務時間は、午前中の3~4時間だったというのです。勤番武士は、そのほとんどが単身赴任で、大名屋敷内にある「勤番長屋」に住んでいました

<商家の番頭や手代>

朝五つ(午前8時)~暮六つ半(午後7時)まで。
 11時間労働です。
 この場合も休みはあったでしょう。
 但し、丁稚(年季奉公の年少者)は、雑用を片付けるため1時間ほど長く働いていました。

ただし、商家に住み込んでいる番頭や手代たちは、今でいえば”サラリーマン”にあたるだけに、職人ほどのんびりとはしていられなかった。朝7時から午後7時までの12時間労働が当たり前で、丁稚の間は暗いうちから起きて雑用をこなし、深夜まで後片付けや雑用をさせられた。一日に14から6時間も働かされるケースもあった。

江戸時代の商家は丁稚に対する休みが殆どなかったようだ。北原進『百万都市江戸の経済』によれば、江戸後期の白木屋日本橋店(後の東急日本橋店、1999年閉店)では三分の一の丁稚が病死もしくは解雇で脱落したという。非常にブラックな労働環境であったようだ。

@tyuusyo なんでそうなるのかと言えば丁稚がろくなものを食べずに長時間労働をさせられているからですね。「白米のご飯と味噌汁ぐらいでおかずがない」(北原前掲書)。その味噌汁もほとんど具がない。落語のネタで「具があるなあと思ったらオイラのめんたまが映ってた…」というのもある

江戸時代の商家や職人は、一般に毎月1・15・28日を休日にすることが多く、このほかに、それぞれの同業者や組合で取り決めた定休日や行事にともなう多数の休日があった。1794年に大阪で出された「町触れ」(地域の公的取り決め)からは、当時の職人の労働リズムがわかる。朝8時に仕事を始め、夕方6時に終わる。午前10時と午後2時に30分の休憩、昼休み1時間、4月8日から8月1日は昼休みが1時間延長され2時間になる。休日は毎月1日・15日、五節句は休み、12月25日から1月9日が正月休み、盆休みは7月11ー20日とある。江戸時代の元禄文化や歌舞伎・浮世絵は、こうした町人の生活リズムの土台の上に生まれた。

<大工や左官屋の職人> 

朝六つ半(午前7時)~夕方七つ半(午後5時)まで。
 今とそんなに変わりませんね。
 でも、昼四つ(午前10時)の小休み・中食(昼食)・昼八つ(午後2時)の休みが・・。
 実質的にゆーと8時間くらいになります。

急ぎ仕事の時には、早朝・夜も働くこともあったのは今と同じ。
 この場合、残業手当として半日分余計にもらえたそう。

江戸の大工は昼食以外に10時と15時に休憩があったのだが、その休憩が1時間を超えるなんてざら。2時間休憩なんて事も結構あった。労働時間にすると、昼の短い冬などは実質4時間労働ぐらい。

南和男さんの『幕末江戸社会の研究』に、様々な例がわかりやすく解説されていますので、それを使います。

 慶應元年(1865年)、麹町12丁目。143人の戸主(世帯主)のうち、38人が日雇い仕事で暮らしていました。約26%です。同年、四谷伝馬町新一丁目では96人中13人で14%。こちらは住民に武士が多い土地柄なので、数字が低くなっています。慶應3年、宮益町では172人中69人で40%にものぼります。さすがに現代の日本で、世帯主の4割がフリーターという話は聞きません。江戸の世では、結婚してもフリーターでいるのがおかしくなかったのです。

 そもそもこういう生き方が可能だったのは、江戸時代の職業が非常に細分化されていたせいなのです。先ほどの資料の中から、日雇い仕事だったものの内訳をあげてみましょう。時の物商売、按摩、車力稼、日雇稼、鳶日雇、棒手振、賃仕事、などです。時の物商売というのは、季節ごとの商品をかついで町中を売り歩く商売です。朝、親方のところに出掛けていって、物売りをやりたいんですけど、といえば、まったくの未経験者でも道具一式を貸してもらえ、すぐに始めれられるというものです

<棒手振(ぼてふり)>

朝六つ半(午前7時)~売れ行き次第。
 商品や天候季節にもよりますが、蜆(しじみ)売りの場合、4~5時間だったとあります。


<饅頭(まんじゅう)屋>
暁七つ(午前4時)~夜の四つ(午後10時)まで。。
 18時間も店を開けていたことに。寝ていたのでしょうか?

地域によってそれぞれ「ショウガツ」「カミゴト」「ドンタク(オランダ語の日曜日zontagが語源)」などとよばれる祝祭日=「村の遊び日」があった。

 「村の遊び日」は、江戸時代初期の年20ー30日が、後期には60ー80日に増える。農業技術の改良・生産力増大で休日は増加し、かつ、宗教的色彩を薄めて人々の余暇時間になった。ただしそれは、個人の自由時間ではなかった。ムラやイエ単位の休日で、冠婚葬祭やムラの行事への出席は、権利ではなく義務であった。

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