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スカイラインがサーキットに戻った日

ハコスカのGTR以来のスカイラインのレーシングカーがサーキットに戻るまでをまとめてみました

更新日: 2014年11月07日

道楽生活さん

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スカイラインがサーキットに戻るまで・・・・・

そして・・・・・・

レースで走るスカイラインが見たい・・・・・・・・・

日産がワークス活動を停止した時期もプライベーターとして、ハセミモータースポーツとして活動を続けていたが、「レースで走るスカイラインが見たい」との思いをプリンス自販(当時)の社員から聞いた長谷見は、プリンス自販の社員に一枚1000円程度の「日産プリンス・ディーラーズ・クラブ(NISSAN・PDC)」のステッカーを購入してもらうことでレース活動の資金を得て、追浜の研究所から当時PA10型バイオレットのグループ5仕様車に搭載されていたLZ20Bエンジンをレンタルしてもらって、シャシー設計は東京R&Dに依頼してスカイラインのグループ5仕様を作る計画を立てたところ、追浜研究所の予想以上の支援が得られた結果、日産ワークスとして活動することになる。

ただし紆余曲折を経て、結局国内用のマシンは追浜ではなく大森ワークスが管轄することになり、同時に車両製作はノバエンジニアリング、デザインは由良拓也が行う形に体制も変更された。

このとき「スカイラインだけじゃだめだ」との本社の意向で、同時にシルビア(S110型)、ブルーバード(910型)のグループ5仕様車も製作することになり、ここに「日産スーパーシルエット軍団」が形成されることになった。

ところがスカイラインはデビューが一番遅くなり、1982年5月に筑波サーキットでのレースでデビューしたものの、初陣はリタイヤという成績で幕を閉じ、次戦・富士スピードウェイでのレースで優勝を飾った。

この時の模様が長谷見は印象深かったようで「スカイラインが最終コーナーを立ち上がるとね、お客さんが総立ちになっているんですよ。あれを見たら、ああスカイラインで走ってよかったなぁって思いましたね。」と語っている。

以降もスカイラインがレース活動をする際は必ずステアリングを握ってきたことから「スカイライン=長谷見昌弘」とイメージする人も少なくない。

1982年には、日産はR30型スカイライン・S110型シルビア・910型ブルーバードを投入。

これら「日産ターボ軍団」とBMW-M1の激突で、富士や筑波サーキットで開催されたスーパーシルエット・レースは大いに人気を博した。

これがきっかけとなり、この後日産は1984年にNISMOを設立するなど、本格的なワークス活動を再開することになる。

日本におけるシルエットフォーミュラ(スーパーシルエット)レースも段階的に縮小し、シリーズ戦は1983年限りで終了(WEC-JAPANには特認で「GT-JAPAN」クラスが設けられた)。1984年には2戦だけ開催され、ここで完全に終焉となった。

さらにグループCにも・・・・・

一方で追浜と東京R&Dでは海外遠征用のマシンを仕立てることになり、こちらは結局グループ5ではなくグループCのマシンである日産・スカイラインターボCとなって結実した。

後の全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)における日産ワークスの系譜の端緒を飾るマシンである。

スーパーシルエットはノバエンジニア+ムーンクラフトの製作だったが、グループC仕様は東京R&D製。

名前だけスカイラインターボC

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道楽生活さん

ロトで高額当選して海外逃亡して『日本人やめました』という本を書き上げたいです。地球を3周してone!と叫びたいです。1周目はスターアライアンスで1周。2周目はoneワールドで1周。3周目はスカイチーム



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