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黒田官兵衛の悪名の原因「宇都宮鎮房(城井鎮房)」誅殺とは?

竹中半兵衛に比べて評判が良くない官兵衛ですけど、評判が良くない原因の1つって宇都宮鎮房(城井鎮房)の誅殺ですよね。一部ネタバレを含むかもしれませんのでご注意を。まあ、タイトル自体がすでにネタバレかもしれませんけど。

更新日: 2018年07月09日

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muzukiさん

宇都宮鎮房とは?

鎌倉御家人だった関東の宇都宮信房の末裔(まつえい)で、豊前国築城(ついき)郡(福岡県)の城井谷(きいだに)に居住しており、城井鎮房ともいった。

戦国時代から安土桃山時代にかけての豊前国の戦国大名。城井氏第16代当主。城井谷城主。怪力無双の人物で強弓の使い手であったとも伝わる。

官兵衛と対立した理由

鎌倉以来の一所懸命の地である豊前の領地に愛着を持つ鎮房は、朝房への秀吉朱印状を返上した。

入れ替わりで豊前を治めることになった官兵衛に反乱を起こしたのでした。

官兵衛に従わなかったというよりは、伊予への転封を命じた秀吉に従わなかったという面が大きいような感じですね。

国をとられた宇都宮氏一族は黒田氏への反感を抱き、
一方の黒田官兵衛はこの地で実力を持つ宇都宮氏を邪魔に思った。

一揆の火の手があがると、赤郷に寓居していた鎮房も反黒田、反豊臣政権への挙兵に踏み切り、赤郷を出て黒田の将大村助右衛門が守備する大平城を奪回して入城した。

黒田側も城井勢を鎮圧しない限り一揆を討伐したことにはならず、かといって力攻めは犠牲が大きい。ここに、両者の利害が一致して、ひとまず講和が結ばれた。天正十五年十二月下旬、宇都宮鎮房の降伏によって豊前一揆はすべて鎮圧された。

宇都宮氏と黒田氏の和睦の条件として、宇都宮氏側から朝房を人質として黒田氏に預けることと、鎮房の娘の長政への輿入れが決められたのである。

黒田家での生活の内容は詳しく分かりませんが、人質と言っても和睦の証しですので、酷い扱いを受けるという事はなく、官兵衛の妻・光らと共に生活をしたのではないかと思います。

宇都宮鎮房と宇都宮家の最期

人質こそ出したものの、相変わらず城井谷城に居座ったまま黒田家のもとに出仕しようとしない鎮房との間には、依然として緊張感が張り詰めていました。

長政は鎮房に対して、義理の父子の縁と友好関係を深める祝宴を開催したいとして、鎮房を中津城へ呼び出す。

後藤基次は後藤又兵衛の本名です。

鎮房の娘・鶴姫は、投獄されていた。このとき、鶴姫は牢獄で磔の杭を打ち込む音を聞き、「なかなかに、きいて果てなん、唐衣、我がために織る、はたものの音」という辞世の句を詠んだ。

鶴姫に関しては助命されたという説もあるそうです。なおこれの意味は「(注釈:辞世の句は、「きいて果てなん」が「聞いて」と「城井て」とがかかっており、「自分を磔にする杭を打ち込む音を聞き、城井が滅亡するのを待つ」という意味にある)そうです。

長政は鎮房の父長甫を捕らえて殺し、鶴姫も侍女共々磔にして殺した。これに呼応した如水は、熊本で朝房を殺した。念入りに企てられた陰謀である。

朝房は人質に出されていた宇都宮鎮房の長男です。

黒田によって根絶やしの凄惨な弾圧が行われる。政略結婚のために嫁ぐことになっていた13歳の鶴姫は磔(はりつけ)にされるのだ。

近くの合元寺(ごうがんじ)という寺に待機していた鎮房の家臣も討たれ、寺の壁はその返り血で赤くなり、何度塗りかえても赤くなったことから、ついには赤い壁にしてしまったという。現在、赤壁寺の別名で知られている。

城井鎮房を暗殺に成功したという知らせが肥後(熊本県)へ出張中の黒田官兵衛に届くと、黒田官兵衛と加藤清正は人質の城井朝房を殺した。城井朝房は黒田官兵衛に呪いの言葉を残して死んだという。

どこが不敗の軍師だよ、何が平和を願った男だよ、と言われてしまう官兵衛の「黒歴史」である。「あれは子の長政がやったことで、官兵衛の所業ではない」という言い訳もあるが、かなり苦しい。

宇都宮氏の誅殺は長政独自の判断ではなく官兵衛の指示の元行われたようです。

知略により人を殺さずに話し合いでの決着を図ってきた官兵衛だが、宇都宮鎮房の謀殺事件では、かなりむごい仕打ちをしている。

祟りを恐れた?

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