1. まとめトップ

わかっちゃいるけど…運動・行動できないのが人間 わかったらできる はウソだった

先に知ったら出来るようにはならない!!!言葉かけが有効なのは、できた後でした。

更新日: 2018年12月18日

2 お気に入り 5937 view
お気に入り追加

この記事は私がまとめました

mototchenさん

人間はわかってもできなかった

これまでの記憶研究によれば、そもそも運動スキルは手続記憶とよばれる非言語的・非陳述的記億のひとつとされ、その遂行過程(記憶としての運動スキルの検索・想起・実行)は潜在的・無意識的に行われると考えられている。したがって、運動スキルは、わかって(頭で理解して)できる、というものではなく、本質的には、意識にのぼらず無意識的に遂行されるものといえよう

人間は、「できた」後からわかる

過程が実はある程度感じとしてつかめ〔知覚でき〕意識できるようになるということであり,しかも,それは,そうした過程をある程度制御できるようになった,その後で意識できるようになる、そして,それがまた次の動きに影響するのだが,「意識できるから制御できる「知覚した情報によって動きが生じる」という常識的考えが破綻したことは事実なのである

多くの被験者は脳波を随意的に制御できるようになる.これに伴い,被験者の中には「脳波感覚」と言われるような脳波の状態と対応した<感じ(こつ)>をつかむ者が出現する。常識的な予想では,〈感じ〉をつかんだので脳波が制御できるようになると考えがちだが,この予想は実験事実とは異なる.実験事実は,こうした〈感じ〉が脳波をある程度随意に制御できるようになった後に得られることを示している。つまり,意識化は制御の後に,制御できて,それが何らかの効果を持つようになって初めて生じると考えることができる

"Will" and Consciousness in the Stream of Movement, Action and Behavior : Toward an Environment Theory of Action

今までのやりかたを疑ってみませんか?
理論的知識は知っていた方が早く上達するか?
自分の方法論(自分の感覚が頼り)
全体の本質は部分からは決して見えてこない

[おすすめ記事]第1回 人生の一大事は「なんとなく」で決まる 脳科学で挑む、95%の無意識 - なぜ脳は「なんとなく」で買ってしまうのか? bit.ly/19qLZSA

先に知ったら「出来る」段階を妨げる

運動技能習得には3つの段階(「体得」-「出来る」-「知る」)があることが推察された

…先に「知る」段階から出発してしまった場合は,その運動技能に関して「出来る」 という感覚が形成されていないために,個人内(「体得」段階と「知る」段階)で混乱が生じてしまうことが推察できる.その結果,「出来る」段階へと移行することが妨げられてしまうことが推察できる

言語化の弊害さえ生ずるとトゥアンは主張している すなわち,「意識した知識というものは,ある技能の習得をさまたげることすらある.」

体育・スポーツ哲学研究
31-1(2009),75-85お気に入り詳細を見る

言語では行動、運動はかわらない

比喩やシンボルなどを用いた「動きへの変換」や擬態語,擬音語による「音への変換」といった認知的方略は,運動の指導において有効であると考えられてきた。しかしながら,本調査では,特にその有効性が示されたわけではない。日常生活における経験や他の運動経験,あるいは既成の概念を基盤とする多様な表現によるイメージの形成は,非伝達者と伝達者が同一の経験や概念を共有してはじめて可能になる。伝達者は,被伝達者のもつ内的世界,すなわちメンタル・モデルを理解することによって,こうした認知的方略を有効な表現として使用できることを忘れてはならない。そして,伝達者には,目的とする運動はもとより,その運動を他の動きや音声的な表象に変換する,すなわちイメージを言語的コード化するための豊富な運動経験を有することが求められるが,そこには,動きを内側から知覚する自己観察が伴っていなければならない。さらに,被伝達者の多様な運動経験は,言語的コード化された情報をイメージにデコードする過程で有効に働くであろう。ここでも,自己の運動を知覚しようとする努力が,運動経験を有意味なものにすることはいうまでもない。

言語表現は,客観的・物理的事実についての「記述的な表現」と心理的事実についての「比喩的な表現」に大別されるが,感覚的にとらえられた運動は比喩的にしか表現することはできないであろうと考えられている.この点に関し,生田(1987)は,直接的な記述的表現は,詳細な指示を与えてくれるものの,学習者の認識活動を活性化させる力は弱く,むしろそうした活動を固定させてしまう.しかし,比喩には記述的表現には欠けている,こうした間接的な表現の効果が存在すると述べている.また,比喩は,学習者にとっての類似の運動体験を呼び起こすための重要な手がかりでもある.そのためには,伝達者が比喩的に表現した事象と非伝達者が経験的に知っている事象が一致する必要がある.つまり,両者がパラダイムを共有していない限り,「比喩的な表現」が類似の運動体験を呼び起こすことはないであろう

我々の通念では,動機づけが ,運動・動作・行動の前に(おそらく言語的に )十分なされていれば,一連の運動・動作・行動は目標到達まで維持 されると考えがちであるが,動機づけは,運動・動作・行動のプロセスの前だけでなく,その渦中にも変化する極めてダイナミックな現象(行動の始発・方向付け・維持・強化)であり,部分的であれ 「効果」 に容易にたどり着けたかどうかが動機づけの強さを大きく変える 。 効果に結びつかない失敗の連続が,鬱や神経症的状態を引き起こすことは極めてよく知られた事実である。
また,ここでも一連の運動・動作・行動の意識化は効果の側から始まるので ,言語的教示による動機づけは,ある程度,一連の運動・動作・行動が方向づけられ習熟してからでないと,ほとんど効果的ではない。
このような観点から,進行中のトレーニング結果に基づくきめ細かな目標の連続的な再設定が必要であり,また有効であることが定説となっている

動機づけに閧する誤解の多くは,動機づけが,実際にやらねばならない動きとは 「別 」に,また動きの「前 」に,励ましや叱咤,あるいは報酬のようなものによって,人の「内」に作り出せるという考え方に由来する。そうした考え方では,動機づけは言葉で説得し,すべきことの大切さをわからせることになってしまうのだが,それが成功裏に終わる例は驚くほどないのである。これは,多くの行動が意識的に推進されているのではないこととも関係する。実際のところ,動機づけが意識され、「ゆえに,がんばらねば!」と自己鼓舞できるようになるのは,やるべきことがかなりできるようになり,ある程度の準備ができあがった後なのである

言葉のリズムと運動

論文

1 2