1. まとめトップ

【吉田松陰】松下村塾の著名な門下生とその経歴まとめ

【吉田松陰】松下村塾の著名な門下生とその経歴をまとめました。/玉木文之進、吉田松陰と続いた松下村塾。高杉晋作、久坂玄瑞といった幕末志士、伊藤博文、山縣有朋といった明治政府の政治家といった人物らが松下村塾から輩出されてきました。/井上真央主演のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」の舞台。キャスト比較もあり。

更新日: 2015年01月19日

28 お気に入り 474086 view
お気に入り追加

この記事は私がまとめました

soki822さん

多くの幕末志士を輩出した松下村塾。吉田松陰の叔父である玉木文之進が創設し、1857年に吉田松陰がこれを引き継ぐ形で師事にあたった。

身分に関係なく学ぶことができた松下村塾。吉田松陰が師事したのは1年程だったが、この間に、高杉晋作や久坂玄瑞といった幕末志士、伊藤博文、山縣有朋といった明治維新後の日本を作った偉人らの多くが松陰から学んでいた。

【松下村塾の著名な門下生とその経歴まとめ】

以下すべて、年数字は西暦・新暦表示で記載しています。

▼松下村塾の四天王

高杉晋作(たかすぎ しんさく)

1839年9月27日〜1867年5月17日(享年27歳)

経歴:
長州藩士・高杉小忠太の息子として生まれる。13歳の時に明倫館に入学し、その流れで松下村塾に入門、松陰からの師事を受けた。

1862年に上海へと渡り、植民地化しつつある中国の現状に大きな影響を受けた。帰国後、奇兵隊を結成、尊王攘夷活動を展開していく。

1865年には、長州藩内における幕府恭順派を一掃、長州藩の実権を奪取し、藩として倒幕運動を掲げることに成功した(功山寺挙兵)。ただ1867年、大政奉還が行われる約半年前に持病の肺結核によって亡くなった。享年27歳。

久坂玄瑞(くさか げんずい)

1840年1月5日〜1864年8月20日(享年25歳)

経歴:
長州藩医・久坂良迪の息子。家族全員を病で亡くし、15歳にして久坂家の当主となった。

松下村塾に入門。吉田松陰は、高杉晋作と久坂玄瑞を「村塾の双璧」と称し、その才能を高く評価していた。その後は高杉晋作らとともに尊王攘夷活動を行った。

1863年の八月十八日の政変によって、京における長州藩の影響力が低下していく中で、失地回復を図るも失敗。薩摩・会津藩との戦いに発展(禁門の変)し、長州藩の敗北濃厚となる中で自刃した。享年25歳。

吉田稔麿(よしだ としまろ)

1841年3月16日〜1864年7月8日(享年24歳)

経歴:
長州藩の足軽・吉田清内の嫡子として生誕。松下村塾で兵学を究め、吉田松陰からは高杉晋作、久坂玄瑞に並ぶ「三秀」と評価されていた。松下村塾の同級生で、明治新政府で活躍した品川弥二郎は、「稔麿が生きていたら総理大臣になっていただろう」と吉田の明晰さを語っている。

高杉晋作が設立した奇兵隊に参加し、尊王攘夷活動を行っていく。ただ、1864年の池田屋事件にて討ち死に。享年24歳。

.
.

入江九一(いりえ くいち)

1837年5月9日〜1864年8月20日(享年28歳)

経歴:
長州藩の足軽・入江嘉伝次の長男として生まれる。松下村塾に入門し、高杉・久坂・吉田らと並ぶ「松下村塾の四天王」として吉田松陰からその才能を高く評価されていた。

吉田松陰による幕府の老中暗殺計画に加担するも、失敗に終わり、投獄される。釈放後は高杉晋作が率いた奇兵隊に加わり、参謀として活躍した。その後、禁門の変(1864年)にて久坂らと共闘するも敗北し、自刃した。享年28歳。

なお、明治新政府で活躍した野村靖は実弟。

.
.
.

▼松下村塾生

寺島忠三郎(てらしま ちゅうざぶろう)

1843年〜1864年8月20日(享年21歳)

経歴:
長州藩士。明倫館、松下村塾で吉田松陰から学び、高杉晋作、久坂玄瑞らととも「御楯組」結成に尽力した(1862年)。尊王攘夷派として活動するも、1864年、禁門の変にて敗北し、自刃した。享年21歳。

有吉熊次郎(ありよし くまじろう)

1842年〜1864年8月20日(享年22歳)

経歴:
長州藩士・有吉忠助の次男として生まれ、明倫館、松下村塾と学ぶ。吉田松陰による老中暗殺計画に参加していた。後に高杉らとともに御楯組を結成、血盟書(血盟署名)に名を連ねた。

1864年、池田屋事件に遭遇するも脱出、池田屋事件の生き証言として、池田屋事件で亡くなった志士らの最期を伝える。ただ、その1ヶ月後、禁門の変にて重傷を負い、自刃することとなる。

前原一誠(まえばら いっせい)

1834年4月28日〜1876年12月3日(享年42歳)

経歴:
長州藩士・佐世彦七の長男。後に前原家を相続。1857年に松下村塾に入塾し、高杉、久坂らと学ぶ。後に倒幕活動に参加し、戊辰戦争にも参戦している。

明治新政府にも入閣し、判事や参議といった重要ポストを歴任していった。その活躍から「維新十傑」の1人とされている。ただ、政策方針を巡って山懸有朋、木戸孝允らと対立、明治新政府から追われる。

以後、故郷である萩にて過ごすも、1876年、奥平謙輔らとともに「萩の乱」を起こす。結果的に、この反乱は鎮圧され、前原は首謀者として処刑された。

時山直八(ときやま なおはち)

1838年1月26日〜1868年7月2日(享年31歳)

経歴:
長州藩士。士雇・時山茂作の子として生まれる。槍術師範・岡部半蔵に宝蔵院流を習い、1850年頃には吉田松陰の下で学んだ。吉田松陰は時山を「中々の奇男子なり、愛すべし」と評価していた。

尊王攘夷派として活動するも、攘夷の不可能を悟り、一早く討幕運動へと切り替える。以後、奇兵隊参謀として幕府との戦いを続けていく。

大政奉還後の1868年、北越戦争に参戦するも、顔面を狙撃されて即死した。享年31歳。

玉木彦助(たまき ひこすけ)

1841年7月5日〜1865年2月11日(享年24歳)

経歴:
吉田松陰の叔父・玉木文之進の長男として生まれる。吉田松陰とは従弟関係にあり、公私ともに仲が良かった。後に松下村塾にて吉田松陰からの師事を受けている。

1865年、高杉晋作らとともに長州藩内における幕府恭順派(俗論党)と戦うも敗北。自刃した。

増野徳民(ましの とくみん)

1841年〜1877年5月20日(享年37歳)

経歴:
医者・増野寛道の長男。1856年、第2期松下村塾設立に尽力し、以後、吉田松陰から師事を受ける。

1862年、久坂玄瑞らによる長井雅楽暗殺計画に加わるも失敗。これ以降、尊王攘夷、討幕運動等には積極的に参加せず、医者、軍医として活動する。

明治維新後に故郷で開業し、医者として余生を過ごした。

駒井政五郎(こまい まさごろう)

1841年〜1869年6月3日(享年25歳)

経歴:
長州藩士。吉田松陰の下で学び、討幕運動に参加する。戊辰戦争では征討軍の軍監を務めるも、二股口の戦いにて土方歳三率いる衝鋒隊に敗れ、戦死する。

松浦松洞(まつうら しょうどう)

1837年〜1862年(享年26歳)

経歴:
魚商人の子として生まれる。松下村塾で学び、尊王攘夷活動に邁進する。画家としても知られ、安政の大獄にて、江戸に送られる直前の吉田松陰の肖像を書き残した人物としても知られる。

久坂玄瑞らによる長井雅楽暗殺計画に加わるも失敗し、後に自害した。享年26歳。

1 2 3