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"ザ・中村紀洋" 白ノリ黒ノリ 波瀾万丈野球人生 ホームランもトラブルもアーチストマインド

和製大砲と呼ばれた中村紀洋は、トラブルでもホームラン連発の野球人生だ。

更新日: 2018年04月25日

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yamatocafeさん

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■ホームラン王・トラブル王と言われる和製大砲

☆輝かしい実績
•本塁打王:1回
•打点王:2回
•最高出塁率:1回
•ベストナイン:5回
•ゴールデングラブ賞:7回
•オールスターゲームMVP:2回
•月間MVP:5回
•通算満塁本塁打:14本(歴代2位タイ)
•通算サヨナラ本塁打:10本(歴代単独3位)
•通算サヨナラ安打:17本(歴代単独3位)

■渋谷高校時代

大阪府立渋谷高等学校
全国高等学校野球選手権大阪大会(2年生)4本塁打を放ち、甲子園初出場
高校通算35本塁打

■近鉄時代

イチロー、松中信彦、小笠原道大、石井一久、三浦大輔、黒木知宏、小坂誠、薮田安彦などと同年代

故障した金村義明の代役として台頭し、三塁手として定着した。
ホームベースから離れて、捕手寄りに立ち、オープンスタンスの神主打法に構え、テイクバックを大きく取り、左足を大きく上げフルスイングによる長打を狙うスタイルだった。

「とにかく入団してから3年目くらいまでは、ほとんど守備の練習はしなかった。バッティングばかり。日向キャンプでは手の皮がペロッとむけました。

キャンプも半ばくらいになると、バットを離すのが嫌になる。一度離すと、また触る時に飛び上がるほど痛いんです。だからバットを握ったまま寝ていましたよ」

「ホームランの打ち損じがヒット」「ホームランを捨てればいつでもヒットは打てる」と豪語、豪快なバッティングスタイルが売りであった
5回の左手首手術の影響で左手の握力は40キロ程度で、フルスイングでなけれ手首に負担がかかり故障が悪化する懸念があり、常にフルスイングのスタイルが形成される要因であった

1999年オフ、推定年俸3億円プラス出来高5,000万円で契約更改、日本人最高年俸選手になる。
2001年オフ近鉄から複数年契約、推定6年契約35億円を提示される。しかし、「1か月で判断するのは難しかった」と複数年契約を拒否し、推定年俸5億円プラス出来高払い1億円の単年契約を結ぶ。

「中村紀洋というブランドを近鉄で終わらせていいのか」
数多のトラブルはこの言葉から始まった

FA宣言に対し、巨人4年30億、メッツ3年16億、近鉄4年20億の提示を行った。

巨人は「モヒカン頭」を理由に交渉打ち切り

巨人は「11月中に結論を」とせかせたのに対し、中村は「メジャーのオファーを待ちたい。結論は12月中旬になる」と主張した。
巨人・渡辺オーナーは中村の金髪、モヒカンのヘアスタイルについて「巨人に入る条件は髪の毛を黒くすること」と注文を付け、4年30億の契約は破談となった。
巨人・土井代表は中村にこう言った。「阪神が強くないと、セ・リーグは面白くない。メジャーに行かないで、、是非セで野球をやってほしい」。巨人の関係者から阪神入りを勧められるという屈辱を受けた。
阪神・星野監督は「打つだけでなく、チームの精神的な柱になれる」と金本を選んだ。

「モヒカン、金髪は大巨人軍のカラーに合わない。子供が真似したらどうする」(2002年シーズンオフにFAした中村紀洋に対し )

メッツと契約寸前で拒絶

それまで是が非でもメジャーリーグでやりたい思いがあったわけではない。野球ができるのなら、どこでも同じという気持ちのほうが強かった。
「でも、内野手(の挑戦)が初めてというのなら、やってやろうやないかと。急に行ってみたくなったんです」
ニューヨーク・メッツ入団に合意と報じられたが、12月にこれがニューヨーク・メッツのホームページに載った事について激怒し、交渉を白紙に戻した。

結果的に近鉄残留

行き場を失い、近鉄梨田監督と深夜の会談を行い、4年20億で近鉄残留が決まった。

2004年限りで近鉄バファローズは消滅、オリックスと合併することになった。
その後楽天イーグルスが新球団として発足し、近鉄球団選手は分配される事になり、中村紀洋はオリックス所属となった。
直後、中村紀洋はポスティングでドジャースへ移籍することになる。

・1992年 27打数/6安打/5打点/2本塁打/打率0.222
・1993年 9打数/1安打/1打点/0本塁打/打率0.111
・1994年 192打数/54安打/36打点/8本塁打/打率0.281
・1995年 470打数/107安打/64打点/20本塁打/打率0.228
・1996年 411打数/112安打/67打点/26本塁打/打率0.273
・1997年 455打数/109安打/68打点/19本塁打/打率0.240
・1998年 481打数/125安打/90打点/32本塁打/打率0.260
・1999年 514打数/134安打/95打点/31本塁打/打率0.261
・2000年 476打数/132安打/110打点/39本塁打/打率0.277
・2001年 525打数/168安打/132打点/46本塁打/打率0.320
・2002年 511打数/150安打/115打点/42本塁打/打率0.294
・2003年 381打数/90安打/67打点/23本塁打/打率0.236
・2004年 387打数/106安打/66打点/19本塁打/打率0.274

■ドジャース時代

2004年11月3日にメジャーリーグ入りの意思を表明。会見で近鉄と2年前に結んだ契約にポスティングシステムによるメジャーリーグ移籍を容認する内容が含まれていたことを明かした。
11月8日の選手分配ドラフトの結果、合併球団オリックス・バファローズに振り分けられた。
12月1日に合併球団が発足、4年契約の2年目を終えた時点で球団が消滅してしまったため、残りの契約期間の年俸(2年分10億円)に相当する保証金を近鉄に要望、うち3億円が功労金として支払われた

ドジャースが落札、年俸6.000万円でマイナー契約

2005年1月25日にポスティング申請し、近鉄と業務提携していたロサンゼルス・ドジャースが落札し。2月3日、ドジャースとマイナー契約(推定1年契約50万ドル)を結ぶ。背番号は近鉄入団当時と同じ66に決まった

AAA級パシフィック・コーストリーグのラスベガス・フィフティワンズでの出場が続いた
メジャーでの記録は、僅か5安打に終わった。
ドジャース時代には内野4ポジションすべての守備に就いている

・2005年 39打数/5安打/3打点/0本塁打/打率0.128

【NEWS】中村紀洋内野手、渡米前に自信を見せていた守備でもチーム最多20失策を記録。ファン感謝デーのイベントを理由も告げずに欠席する。試合を「罰ゲーム」と呼ぶといったマイナーリーグの経営事情を無視した行動も。メジャーリーグから声がかからないまま、9月5日に3Aのシーズンが終了。

■オリックス時代

「帰ってきたで」というキャッチコピーのポスターが製作され、出身地である関西地方へ戻ってきた清原和博との共演が話題となる。

開幕前に右足に肉離れを起こし、4月28日に左手親指を捻挫。更に5月13日の対ヤクルト戦で死球を左手首に受けて負傷。負傷した箇所をかばいながら出場している間に右手首も痛めるという故障続きのシーズンとなる。

8月11日に左肘に死球を受け途中交代するとその後は試合出場がなく、日本球界復帰1年目は85試合出場、328打数、76安打、打率.238でシーズンを終える。
二塁打22、本塁打12はチーム2位を記録した。9月に左手首を手術。

清原和博、中村紀洋は俺の英雄ってゆーか、尊敬すべきレジェンド

「公傷」めぐり6度の契約交渉決裂、自由契約

契約交渉では中村が左手首の故障を「公傷」と主張したのに対し、球団側はそれを認めず、60%減の8,000万円(推定)の単年契約を提示。規則の限度を超える減俸を突き付けられて退団する羽目となる。
トレードを試みるも獲得球団は無く、自由契約となった。

・2006年 328打数/76安打/45打点/12本塁打/打率0.232

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