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★ 「笠森お仙」ってどんな人なの?

笠森お仙(1751-1827)は、江戸谷中の笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」で働いていた看板娘。

明和5年(1768)ごろ、市井の美人を題材に錦絵を手がけていた浮世絵師鈴木春信の美人画のモデルとなり、その美しさから江戸中の評判となり一世を風靡した。

鈴木春信(1725?-1770)は、江戸時代中期の浮世絵師で、「錦絵」の創始者として有名です。浮世絵は、それまでは色数が限られていましたが、鈴木春信らによって、版木を摺り重ねる技術が考案され、多色摺りの「錦絵」と呼ばれる絵が創り出されました。

明和年間(1764-1772)、浅草寺奥山の楊枝屋「柳屋」の看板娘「お藤」と人気を二分し、また二十軒茶屋の水茶屋「蔦屋」の看板娘「およし」も含めて江戸の三美人(明和三美人)の1人としてもてはやされた。

柳屋お藤(左)、歌舞伎の女形瀬川菊之丞(中央)、笠森お仙(右)

お仙見たさに笠森稲荷の参拝客が増えたという。また、「鍵屋」は美人画の他、手ぬぐいや絵草紙、すごろくといった所謂「お仙グッズ」も販売していた。

明和7年(1770)2月ごろ、人気絶頂だったお仙は突然鍵屋から姿を消した。お仙目当てに訪れても店には老齢の父親がいるだけだったため、「とんだ茶釜が薬缶に化けた」という言葉が流行した。

お仙が消えた理由についてさまざまな憶測が流れたが、実際は、幕府旗本御庭番で笠森稲荷の地主でもある倉地甚左衛門の許に嫁ぎ、9人の子宝に恵まれ、長寿を全うしたという。享年77。現在、お仙を葬った墓は東京都中野区上高田の正見寺にある。

向こう横丁のお稲荷へ一銭あげて ちゃっと拝んでお仙の茶屋へ 
腰を掛けたら渋茶を出して 渋茶よこよこ横目で見たらば
米の団子か 土の団子か お団子 団子
この団子 犬にやろうか 猫にやろうか
とうとうとんびにさらわれた

昭和時代まで歌われたお仙の手毬歌です

★ お仙がいた「笠森稲荷」ってどこ?

谷根千エリアには、大円寺、功徳林寺、養寿院という3つのお寺に笠森稲荷があります。では、笠森お仙がいた「笠森稲荷」はどこだったのでしょうか? 3つのお寺の笠森稲荷の由来を探ってみましょう。

1. 大円寺の瘡守稲荷

5代将軍綱吉に仕えた大前孫兵衛重職は、腫れ物に苦しんでいましたが、享保10年(1725)に故郷の摂津国芥川の瘡守稲荷(現在の大阪府高槻市の笠森神社)を和田倉門の御用屋敷に勧請したところ、たちまち完治したことから評判となり、腫れ物や梅毒等に悩む人々が多数参拝するようになりました。

瘡守稲荷は、白正徳年間(1711-16)に白山御殿跡地に移されましたが、評判を聞きつけて病人が多数押し掛けたので、寺に納めた方が多くの人が助かるだろうと考え、享保10年(1725)に大前家の菩提寺の大円寺に移転し、「谷中の瘡守様」として多くの参拝客が訪れました。土の団子を捧げて祈願し、治癒すれば米の団子を供えてお礼をしました。吉原や根津の女郎が数多く参拝したと言われます。
明治維新後に神仏分離令が公布され、寺に稲荷を祀ることができなくなり、「瘡守薬王菩薩」と名を改めましたが、今日でも「瘡守稲荷大明神」として通っており、最近はアトピー性皮膚炎や癌の快癒を祈る人も参拝するそうです。

大円寺には「笠森お仙の碑」があり、永井荷風が碑文を書いています

「女ならでは夜の明けぬ、日の本の名物、五大州に知れ渡るもの、錦絵と吉原なり。笠森の茶屋かぎや阿仙、春信が錦絵に面影をとどめて、百五十有余年、嬌名今に高し。今年都門の粋人、春信が忌日を選びて、こゝに阿仙の碑を建つ。
時恰大正己未夏 六月鰹のうまい頃」

永井荷風は、お仙を主人公とした「恋衣花笠森」という小説を書いています(岩波書店『荷風小説4』収録)。

大円寺には鈴木春信の碑も建立されています。

"お仙は、笠森稲荷社前の茶屋「鍵屋」の看板娘で、江戸の三美人の一人。絵師鈴木春信はその姿を、当時全く新しい絵画様式である多色刷り版画「錦絵」に描いた。お仙に関係の深い笠森稲荷を合祀している大円寺に、大正八年、二つの碑が建てられた。「笠森阿仙の碑」は小説家永井荷風の撰、「錦絵開祖鈴木春信」碑は文学博士笹川臨風が撰し、題字は、東京美術学校(現、東京芸術大学美術学部)校長正木直彦の手になる。..."

大円寺の谷中菊まつり

団子坂は、江戸時代から明治にかけて菊人形作りがさかんで、多くの見物客が訪れました。作家の森まゆみさんや「すし乃池」主人の野池さんらが中心となって、昭和59年に「菊まつり」を復活させました。毎年10月初旬に、谷中大圓寺で菊人形が展示されるほか、菊小鉢が販売され、屋台が出て、菊いなり、菊なます、菊酒、おでんなどが販売されます。
2016年は、10月8日(土)と9日(日)に開催予定。

TAITOおでかけナビ:谷中菊まつり(大円寺)
(http://taitonavi.jp/enjoy_detail.html?no=342)

谷中菊まつりでは、「おせん菊人形」も展示されます

でも、大円寺はお仙がいた笠森稲荷ではないんです!

笠森おせんが実際いたのはこの上の福泉院、いまの功徳林寺の辺りですが、なぜ私どもの大円寺に碑が立ったかというと、それはうちの寺が鈴木春信の碑文を書いた笹川臨風さんと縁があったということと、こちらの瘡守様が有名だったからでしょう。

出典地域雑誌 「谷中・根津・千駄木」63号 江戸の谷中美人笠森おせん

おせんの碑文を書いた永井荷風と臨風さんはもちろん懇意だった。碑というものは人が見る、知ることが供養になりますから、人が大勢集まるところへ建てるほうがいいんですね。

出典地域雑誌 「谷中・根津・千駄木」63号 江戸の谷中美人笠森おせん

2. 功徳林寺の笠森稲荷

天正12年(1584)、徳川家康は、長久手の戦いの際に腫れ物に悩まされていましたが、倉地甚左衛門が摂津国芥川の瘡守稲荷に祈ったところ、たちまち平癒しました。その子孫倉地甚四郎は、宝暦年間(1751-64)にこの笠森稲荷を勧進して感応寺(現在の天王寺)の境内に移し、福泉院に祀りました。この福泉院の前にお仙の茶屋鍵屋があったと言われています。

感応寺は、明治元年(1868)に縮小されましたが、その際、福泉院は取りつぶしになりました。
その後、明治7年(1874)に谷中共同墓地が造られましたが、これを供養する寺がなかったことから、島津忠寛伯爵を中心として新しい寺の建立を求め、明治26年(1893)に功徳林寺が創建されました。これらの笠森稲荷やお仙の茶屋鍵屋があったのは当寺の付近であることから、明治41年(1908)に笠森稲荷の祠が建てられました。

天保3年(1832)の『江戸名所図会』の「谷中感應寺」の図には、感応寺の西門付近に「笠森いなり」と書かれており、現在の功徳林寺付近が笠森稲荷の跡地であることが分かります。

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