1. まとめトップ

この記事は私がまとめました

inevergiveupさん

ニコラエ・チャウシェスク(ルーマニア語: Nicolae Ceaușescu、1918年1月26日 - 1989年12月25日)は、ルーマニアの政治家。ルーマニア社会主義共和国国家評議会議長(1967年 - 1974年)、初代大統領(1974年 - 1989年)、ルーマニア共産党書記長(1965年 - 1989年)。
1960年代から80年代にかけての24年間にわたり、ルーマニア共産党政権の頂点に立つ独裁的権力者として君臨した。

1989年にポーランドで民主的な政権が成立した際、ルーマニアにもこのような動きが波及することを恐れたチャウシェスクは、チェコ事件の時とは反対にワルシャワ条約機構軍による軍事介入をソ連に要請した。しかしソ連のゴルバチョフはこの要求を一蹴し、チャウシェスクは事実上ソ連に見限られる形となった。チャウシェスクはなおも権力の維持を図ろうとするが、首都ブカレストを含めて全国規模で暴動が勃発。ソ連の介入がないことが確定的となったため、ルーマニア国軍もチャウシェスク政権に反旗を翻した。同年12月に起きたルーマニア革命でチャウシェスクは完全に失脚し政権は崩壊、12月25日、逃亡先のトゥルゴヴィシュテにおいて、革命軍の手によって妻エレナとともに公開処刑(銃殺刑)された。

チャウシェスクは政権獲得当初こそ国民から高い支持を得ていたものの、1980年代にはその人気は低下していった。1989年頃になると、チャウシェスクはもはやルーマニアの現状を受け入れることすらままならなかった。1980年代末、一般市民がろくに商品が無い商店の前に長い行列を作っている中、チャウシェスクは商品でいっぱいの店に入り、大量の食ベ物を抱えて芸術祭を訪問する対照的な姿が国営テレビで度々放映された。

国民の中には、国内の窮乏をチャウシェスクが知らないのではないかと考え、チャウシェスクが各地を訪問する際に嘆願書や不満を訴えた手紙を手渡す者もいた。しかしチャウシェスクは、それらの手紙を受け取ると、それをすぐに秘密警察の人間に渡した。これらの手紙をチャウシェスクが実際に読んだかどうかは今なお不明だが、いずれにしても嘆願書を渡すことは非常にリスクが大きく、国民は次第にそれを思いとどまるようになった。チャウシェスクは、ルーマニア経済の実情については側近から良い報告しか受けておらず、本当の国内事情を把握していなかったとされている。
このほかにもチャウシェスクは首都ブカレスト市内に「国民の館」と呼ばれる巨大な宮殿を建設し、党や国家の要職もチャウシェスクの家族・親族30人以上が独占していた。こうした一般庶民の生活を顧みない政治姿勢に国民は失望し、人気も支持も低下していった。

1