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【これぞ現代の #真田丸?#井伊の赤備え?】赤きSAMURAI の足技に刮目せよ?!

これぞ現代の真田丸?それとも井伊の赤備え?SAMURAIの技に注目せよ!

更新日: 2017年10月18日

k-taigaさん

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まずはこの動画ご覧あれ!

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赤備えとは?

赤備え(あかぞなえ)は、戦国時代の軍団編成の一種。具足、旗差物などのあらゆる武具を朱塗りにした部隊編成の事。戦国時代では赤以外にも黒色・黄色等の色で統一された色備えがあったが、当時赤は高級品である辰砂で出されており、戦場でも特に目立つため、赤備えは特に武勇に秀でた武将が率いた精鋭部隊である事が多く、後世に武勇の誉れの象徴として語り継がれた。赤備えを最初に率いた武将は甲斐武田氏に仕えた飯富虎昌とされ、以後赤備えは専ら甲斐武田軍団の代名詞とされる。

武田の赤備え

武田軍の赤備えを最初に率いたのは後代に「甲山の猛虎」とも謳われた飯富虎昌で、騎兵のみからなる騎馬部隊として編成された。
元々朱色は侍の中でも多くの首を上げた者にのみ大名から賜るものだった。そこで、各武将の次男(自領は父からは譲られず、自らの槍働きで稼ぐしかない)たちに朱色で統一した赤備の部隊を組織化。現代風にいえば切り込み隊として組織した。

真田の赤備え

1615年(慶長20年)、大坂夏の陣において真田信繁(幸村)が自分の部隊を赤備えに編成した。敗色濃厚な豊臣氏の誘いに乗って大坂城に入った信繁の真意は、恩賞や家名回復ではなく、徳川家康に一泡吹かせて真田の武名を天下に示すことだったと言われている。武田家由来の赤備えで編成した真田隊は天王寺口の戦いで家康本陣を攻撃し、三方ヶ原の戦い以来と言われる本陣突き崩しを成し遂げ、「真田日本一の兵 古よりの物語にもこれなき由」と『薩摩旧記』(島津家)に賞賛される活躍を見せた。絵画としては唯一、黒田長政が『大坂夏の陣図屏風(黒田屏風)』に赤備えの真田勢を家臣の黒田一成に命じて描かせている。
ただし、真田氏で赤備えを導入したのは信繫が最初では無く、信繫の父真田昌幸が存命中の文禄2年(1593年)に豊臣秀吉から「武者揃」を命じられた信繫の兄信幸は、「いつものことくあか武者(赤備え)たるへく、指物はあかね」という指示を家臣に出しており、既に文禄年間には真田氏は少なくとも甲冑と指物には赤を使用していたようだ。

井伊の赤備え

武田氏滅亡後、天正壬午の乱を経て甲斐は徳川家康によって平定されるが、その折に武田遺臣を配属されたのが徳川四天王にも数えられる井伊直政である。
武田の赤備えを支えた山県隊の旧臣達も直政に付けられ、これにあやかって直政も自分の部隊を赤備えとして編成している。井伊の赤備えは小牧・長久手の戦いで先鋒を務めて奮戦し、井伊の赤鬼と呼ばれ恐れられた。
以後幕末に至るまで井伊家の軍装は足軽まで赤備えをもって基本とされた。

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はるか地球の反対側。
全身に甲冑をまとったサムライが、
単身、ブラジルに武者修行に乗り込む。

武者には、日本を代表するフリースタイルフットボーラーの
徳田耕太郎 (tokura) さんを起用。

果たして、その結末やいかに!?

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k-taigaさん

いつだって情熱大陸、辰年。