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山口組4代目組長 竹中正久とはどういう男なのか その生涯

山口組4代目組長 竹中正久の生涯をまとめてみました貝崎事件 ジュテーム事件 大阪戦争 日本橋事件

更新日: 2017年05月05日

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akiratetsuoさん

竹中正久 生い立ち

昭和8年11月30日
八男五女の七番目、三男として兵庫県飾磨郡御国野村(現・姫路市)に生まれる

長男と次男は堅気、七男は産まれてから直ぐに亡くなった

三男・正久以下の男兄弟、四男・英男、五男・正、六男・修、八男・武
全員が後に極道となる

祖父が助役、実父が村議会議員を務めた事のある良家だった

昭和21年 実父の龍次が死亡

難関の旧制姫路市立鷺城中学校(現・姫路市立姫路高等学校)に入学していた正久は中退した

昭和23年 次男・良男が死去

昭和26年
17歳の時、鑑別所を経て、奈良特別少年院に送られる

この時、三代目山口組、宇野組組長宇野加次の息子、宇野正三と出会い兄弟分の約束を交わす

これが後に正久が山口組に入るキッカケとなる

昭和28年6月
正久19歳の時、少年院を出る

竹中組 結成

昭和32年
公務執行妨害などで神戸刑務所に1年間服役
この時、自身の配下の恐喝罪も正久が背負った

昭和35年8月
地元の不良を統合し竹中組を結成した

少年院で知り合った兄弟分の宇野正三の父、三代目山口組宇野組組長・宇野加次が
正久の山口組入りを三代目山口組若頭・地道行雄に推薦した

これを姫路の山口組系、湊組・湊芳治組長と渋谷組・渋谷文男組長が反対した

最終的に地道の眼に適い親分・田岡一雄に竹中を推挙

昭和36年12月13日に田岡から盃を受け、三代目山口組直参となった

この時、正久は若干28歳。当時の山口組本家の月会費は二千円だった

博多事件(夜桜銀次事件)

昭和37年1月
博多事件発生(夜桜銀次事件)
大手前の喫茶「ブラジル」で竹中組から、福岡へ行くメンバーをくじ引きで決める

福岡県博多での滞在先の旅館に福岡県警が踏み込む

令状の無い県警に対し正久は「令状を持ってこい!」の一点張りで一歩も部屋に入れなかった
その為、他の山口組直系の組員が任意同行される中、数時間に及ぶ押し問答の末
竹中組の者だけが手錠をかけられた状態で連行された

この事件では山口組直系の組員105名が逮捕され、その殆どが凶器準備集合罪の罪に問われた

しかし竹中組では全員が正久の指示通り
「喧嘩に来た訳ではない。葬式に来たんだ」と押し通した

取り調べ中、検事が正久の親分を「田岡」と呼び捨てにした事に怒り、机をひっくり返し暴れる

拘留22日、夕方ギリギリまで竹中組の全員の身柄を押さえたまま、検事は正久に迫った

「竹中組から誰か1人責任者を出してくれ。出さないなら否認のまま全員を起訴する」

正久は自ら責任者として配下をかばい、竹中組では正久だけが起訴された

結果的には正久以外は22日で保釈され、竹中組の被害は最小限にとどめた

昭和37年~昭和46年

昭和37年
福岡留置所を保釈出所

この年、竹中組では正式に盃事が行われた

八男・武が南地で経営していた「25時」を譲り受け竹中組の事務所が発足する

昭和39年2月
正久の母愛子が肝臓癌で他界。葬儀には田岡夫人フミ子も参列

十二所前町に竹中組の本部事務所兼、正久の住居が完成する

同年6月
四男・英男が死去

昭和41年
野球賭博で逮捕 一年間の服役

昭和42年
通りがかりの男と竹中組組員がトラブルになり、竹中組事務所のガラス戸が割られる

このトラブルの件で被害を受けたはずの竹中組が家宅捜索となり
正久側が捜査の立ち合いに激しく抵抗する

正久が立ち合いを拒否した為、捜査側は公務員である消防署署員を呼び出し
これを立会人に合法的に捜査が開始されるはずった

そこで正久の意を受けた組員が立会人にこう切り出した

「事務所には高価な物もあるので、後々面倒が起っては困る。
名前や住所を聞かせてくれませんか?」

これには呼び出された立会人も尻込みする事になり、結果的に捜査員を数時間立ち往生させる

最終的には姫路署から依頼を受けた湊組・湊芳治組長が正久の説得にあたる

昭和44年12月
地元組織旧本多会系の小川組との抗争などで、凶器準備集合罪で逮捕

昭和46年6月
保釈

この取調べ期間中に福岡事件の上告を取り下げ刑を確定させる
しかしこの期間、留置所で取り調べが続いてた為、実質的には刑務所には務めずに刑を済ませる
法を熟知した正久ならではのテクニックだった

同年
山本の若頭就任に伴い、37歳で若頭補佐に就任する

この当時の山口組本家の月会費は5万円だった

貝崎事件 ジュテーム事件 大阪戦争 日本橋事件

昭和47年
貝崎事件

竹中組が山口組に加入して初めての殺人事件だったが、実は前年ひそかに
白龍会組員を殺害し仁寿山に埋めるという事件が起きていた

昭和48年
前年行われた総長賭博に絡んで山口組、稲川会の大物幹部が多数逮捕されるが
事前に正久の発案でその日付けを最後まで伏せておくよう根回しされていた

その甲斐あって兵庫県警は賭博開帳日を特定出来なかった

全員が無罪放免となり罪に問われる事はなかった

昭和50年7月
ジュテーム事件

大阪府豊中市で山口組直系佐々木組傘下の3人が松田組系構口組傘下組員に射殺される

いわゆる大阪戦争の勃発である

昭和51年
日本橋事件

山口組佐々木組傘下の組員が松田組系、村田組内、大日本正義団会長・吉田茂弘を射殺

昭和53年2月
昭和44年の凶器準備集合罪の上告を最高裁が棄却
懲役2年の実刑判決が確定し54年9月まで神戸刑務所に服役

昭和53年7月
ベラミ事件発生
田岡一雄が松田組系大日本正義団の組員・鳴海清に撃たれ負傷した
この時、正久は服役中だった

昭和53年11月
山口組側から「抗争終結」を宣言

昭和54年
正久の服役中に長男の龍馬が死去

昭和40年代後半に六男・修も死去しているので、竹中兄弟は
三男・正久、五男・正、八男・武の三人となる

昭和55年~昭和60年

昭和55年1月
津山事件

岡山県津市で二代目木下会系平岡組組員が、竹中組の事務所を襲撃
山口組系小西一家傘下組員、水杉義治、小椋義政の2人を射殺した

昭和55年5月
姫路事件

姫路駅前で二代目木下会会長、高山雅裕を射殺

昭和56年3月
三代目となっていた木下会と和解

昭和56年7月
三代目山口組組長・田岡一雄死去

昭和57年2月
三代目山口組若頭・山本健一死去

昭和57年3月
脱税容疑で竹中組や関係先、約30か所の家宅捜査を受ける

若頭補佐の山本広が組長代行に就任

田岡未亡人の推薦により正久が若頭に就任

昭和57年8月

正久は脱税容疑で逮捕される

昭和58年6月
正久が保釈出所

昭和59年6月5日
直系組長会に田岡フミ子が出席し、竹中正久を四代目に指名

正久の四代目に反対する者たちが山口組を脱退し、山本広を会長に一和会を結成

同年7月10日
徳島県鳴門市で継承式が執り行われた

この頃とある舎弟から襲名のお祝いに500万を差し出されたが
受け取らずに持ち帰らさせている

昭和60年1月9日
5年前の賭博の事件で上告が棄却され懲役5か月が確定した

未決交流日数を差し引かれ、実際は50日程の懲役となる
確定後には出廷して服役しなければならないが、これを引き延ばして2月から服役するはずだった

竹中正久 その最期

昭和60年1月26日
京都府八幡市の病院に入院中の田岡フミ子を見舞った
夕方大阪ミナミで食事をしたあと若頭の中山が他の者たちを帰らせた
この時点で正久に付いていたのは、若頭の中山、南力、そして運転手の組員のみであった

その後一行は北新地のクラブに繰り出した

午後9時前
クラブを出て一行は、南組のベンツに乗り込んだ
助手席には南、後部座席には正久と中山が乗り込んだ
行き先は吹田市江坂。江坂には正久の愛人が住むマンションがあった

部屋はマンションの5階。そして同じマンションの2階には
一和会のヒットマンたちのアジトがあった

正久にとって、この世で1番危険な場所となっていた

マンションに到着すると、南は運転手にしばらく待機するようにいい置き
正久、中山、南の3人がエントランスを抜け、エレベーターホールへと消えていった

運転手が車をバックさせていると、立て続けに銃声が鳴り、続けざまに青白い閃光が走った

エントランスから正久がよろけながら出て来て、車と反対側へと逃れるのが見えた

それを追うように男が2人マンションから飛び出してくる

男は車に気付き拳銃を構えた

アクセルを踏み込み男を撥ね飛ばした

正久を後を追い真横に付けると抱きかかえるように車へ乗せた
正久は「大丈夫や」と言った

自動車電話で救急車の手配を頼んだ

「親分どこをやられました?」

「腹と胸や」

はっきりとした口調だった

南組事務所に到着し救急車に乗せられた

正久は横たわったまま、自分で腕時計を外し、付き添った組員に預けた

救急車が走り出したその時、正久が呟くように言った

「身体を起こせ」

これが正久の最期の言葉となった

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