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世界一美しい「珊瑚(サンゴ)」の海をもつ、「パラオ」。

大小300の島々から成り、人口は2万人程度。
年間の平均気温は約28℃の「常夏の島」であり、日本との時差はない。

今、パラオに住む人でこの橋を知らない人はいないでしょう。
全長412m、主塔の高さ41m、幅10mの橋は、その優美さと走り心地の良さで毎日多くの人に利用されています。
国際空港から市内に入る場合にも、必ずこの橋を通ります。
また、休日には橋の下の広場で地元の子供達が楽しく遊び回ったり、高校生が掃除をしていたり、毎年10月1日になると、政府の独立記念式典が橋の下の広場で催されて、長く延びた橋の各柱には、パラオの青海満月旗が翻ります。
この橋は「KB橋」と呼ばれ、日本の援助によることから、「日本・パラオ友好の橋」とも名付けられ、この国で広く愛着を持たれています。

また、この橋の完成の機会に特別に記念切手が発行されました。

日本・パラオ友好橋

パラオではたくさんの日本語が使われています。
例えば「大丈夫」「どうぞ」「ゴメン」などの何気なく使う言葉や「扇風機」「浴衣」(パラオには冬がない)といった言葉もあったりします。

シゲオ、クニオ、フミコなどの所謂「日本人の名前」が名字、性別問わず付けられていたりします。
更には「カトウサン」といった「さん」を名前に付けていることもあるようです。

国民のほとんどが「ハトのうた」を知っており、桃太郎のうたを歌える子もいるようです。
パラオの曲には「アナタシカイナイー!」と歌うラブソングもあるようです。

日本人は、「パラオ」という国自体をよく知らない人が多いというのに、なぜ、パラオはそれほど「親日」なのであろうか?

その答えの一つは、パラオの悲しい歴史の中にある。

不幸の始まりは、ヨーロッパの大航海時代に、「スペイン」に発見されてしまったことである。

ヨーロッパから持ち込まれた「天然痘」、ならびに現地人に対する「熾烈な搾取」の結果、パラオの人口は、およそ10%にまで激減し、わずか数百人しかいなくなってしまったという。

スペインが米西戦争で敗れると、パラオは「ドイツ」に売却される。

「ドイツ」は、ココナッツ・タピオカの栽培、リン鉱石の採掘などの「産業振興」に熱心だったものの、インフラ(道路・水道)整備・現地人の教育などには、全くの無関心であった。

ドイツが第一次世界大戦で敗れると、パラオは「日本」の統治領となる。

日本も、ドイツ同様に「殖産興業」に力を入れた。加えて、日本は「教育」にも熱心であり、現地人の住環境整備とともに、多数の学校や病院を建設した。

日本の行った一連の施策は、パラオに「未曾有の経済発展」をもたらし、人口も2万人から5万人へと激増した。

パラオはその歴史上、幾多の外国支配を受けてきたが、現在のパラオ人は口をそろえて「日本の統治時代が一番良かった」と述懐するという。

第二次世界大戦末期、パラオは日米の戦場となる。

日頃から日本人の「誠実さや勤勉さ」に触れてきていたパラオ人の中には、「共に戦う」と志願してきた人々までいたという。

パラオ人には「蒙古斑」があり、人種的には欧米人よりも日本人に近いと言われている。

その近縁の日本人たちが、圧倒的劣勢の中でも、果敢にアメリカ軍に立ち向かっていく姿に、パラオ人たちは感銘を受け、尊敬さえもしたという。

日本軍は、パラオの民間人に対する充分な配慮を見せ、疎開させるなどして、「パラオの民間人の死者を一人も出さなかった」という。

しかし、残念ながら、日本はアメリカに敗れる。

アメリカ兵は、島に残された日本兵の遺体を放置していたが、パラオ人たちは、勇敢に戦い「仏」となった日本兵たちを手厚く葬り、いまもその墓を守り続けているという。

アメリカの占領下に入ったパラオ。

アメリカにとってのパラオは、単なる「軍事基地の一つ」に過ぎなかった。

その統治方針は、「戦前の日本の記憶の一掃」であり、日本が築いた町並みや産業基盤は徹底的に破壊され、主のいない農地は元のジャングルと化した。

さらに、アメリカは「反日教育」によりパラオ人を洗脳しようとする。しかし残念ながら、パラオ人の間には、「反日の精神は、まったく浸透しなかった」という。

アメリカは、パラオの産業を振興せず、島民をおとなしく島に閉じ込めておくという政策をとり、その愚策は「動物園政策」と批判を受けている。

パラオの国定教科書全462ページの内36ページが日本統治時代のことが記載されており、章には「日の丸の旗のもとに」というタイトルが付けられています。

戦前に日本人住民が繁栄祈願の神社をパラオ:ペリリュー島に建てました。
戦後、日本とペリリュー島酋長が協力して日本兵の慰霊碑も建設されました。

太平洋戦争のとき、ペリリュー島には日本軍が進駐し陣地が作られました。
日本兵と島民は仲良くなり、日本の歌を一緒に歌ったりしたそうです。
やがて、戦況は日本に不利となり、いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になりました。
島民は話し合い代表数人と共に日本の守備隊長のもとを訪れました。
「自分達も一緒に戦わせて欲しい」
それを聞くなり隊長は激高し
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」
と叫び追い返しました。
島民は裏切られた想いで悔し涙を流しました。
船に乗って島を去る日、日本兵は誰一人見送りに来ません。
島民は悄然と船に乗り込みました。
しかし、船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきました。
そして、一緒に歌った日本の歌を歌いながら手を振って彼らを見送ってくれました。
先頭には笑顔で手を振るあの隊長の姿もありました。

ペリリュー島の戦いで日本軍は3日で終わるとされていた戦いを72日間耐え玉砕しています。
その72日間の戦いで民間人の死者数は0でした。

アメリカの圧政により、パラオの独立は遅れに遅れた。

待望の独立は、東西冷戦の終結により、「アメリカにとってパラオの利用価値がなくなった後」の1994年である。世界で185番目の独立国家(現在193ヶ国)として国連に承認された。

アメリカ統治時代に、インフラ整備や経済産業はすっかり後退してしまっていたが、独立後、日本や台湾の支援により、急速に都市整備が進む。

独立に際して制定された「パラオの国旗」は、「日の丸」デザインの色違い。

「青い海に、黄色の満月」という「月の丸」である。

公募された国旗案70点の中から、一も二もなく、この国旗が満場一致で選ばれたという。

「太陽」を象徴する日本の国旗に遠慮したパラオは、「満月」をモチーフとし、さらに、中心を少しずらすことで、日本に敬意を表したといわれている。

在日パラオ大使館などによると、発表後、大使館への義援金の申し入れが相次ぎ、ネットには「親日国にわずか200万円か」と金額の少なさを疑問視する声が見られるようになった。

集まった義援金は12月3日現在で1923万円となり、米国政府の支援金10万ドル(約1030万円)を上回った。

パラオ北部では、北端カヤンゲル州での全戸倒壊を含め、家屋300戸以上が被害を受けた。
パラオ政府の要請を受け、日本政府は11月15日、200万円相当の緊急援助物資の提供を発表した。

■ 両陛下がパラオ到着、大勢の人々が歓迎

天皇皇后両陛下は、戦後70年にあたり、太平洋戦争の戦没者を慰霊するため、西太平洋の国パラオに到着されました。

パラオは日本から3000キロ余り。
かつては日本が統治し、1944年に日本とアメリカが衝突したペリリュー島の戦いでは、日本側だけでおよそ1万人が命を落としました。

今回の訪問は戦没者を慰霊したいという両陛下の強い希望もあって実現したもので、パラオ訪問は長年の念願でした。

空港に到着した際は笑顔を見せていましたが、時折、やや緊張した表情も見受けられました。

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