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「ラストエンペラー」愛新覚羅溥儀、激動の人生を共にした5人の妻たち

清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀の妻たちのそれぞれの人生を振り返ります。

更新日: 2014年10月02日

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melodienelさん

婉容 (えんよう、Wan Rong)

1906年生まれ。17歳の時、愛新覚羅溥儀に皇后として迎えられる。

婉容には、結婚後に家庭教師として北京生まれのアメリカ人・イザベル・イングラムが付けられ、彼女から「エリザベス(Elizabeth)」の愛称で呼ばれた。自分専用の自動車を与えられ、イギリスかアメリカ留学を夢見た。彼女は溥儀に、ナイフやフォークの使い方を教えたと言われる。しかし天津の深窓に育ち、ミッションスクールを出て一夫一婦制のキリスト教的価値観に憧れた婉容にとって、男色との噂のある溥儀との夜の生活は、全く想像もしないアブノーマルな世界であったろう。溥儀は初夜にも現れなかったのだ。

夫婦仲は次第に冷めていく。原因は溥儀のインポテンツかホモセクシャルとも言われる。鬱屈した気分を晴らそうとした婉容はアヘンに手を出し、重度の中毒に陥った。

溥儀が満州国皇帝となると婉容も再び皇后となるが、アヘン中毒と日本人嫌いのため、公式の場にはほとんど姿を見せなかった。満州国時代末期に婉容の姿を見た者によると、彼女はボロ同然のすり切れた服をまとい、髪は乱れたまま、不健康な生活のため視力をほとんど失い、自力で立ち上がることすらできなかったという。ついには精神錯乱を来していたというが、溥儀は婉容に手をさしのべることもなく、むしろ離婚を考えたと言われる。

1931年、満州事変により溥儀は関東軍の要請を受けて天津から満州へ脱出。この際、婉容は「男装の麗人」と呼ばれた川島芳子の助けを受けて天津から旅順へと身柄を送られる。

1945年日本の敗戦となると、婉容は日本亡命を計る溥儀や弟・溥傑と一緒の航空機には乗せられず、僅かな親族や従者と共に満洲国内に取り残され、やがて侵攻して来た共産軍に捕らえられた。更に国共内戦が始まると、敗走する共産党軍と共に中国各地を転々と引き回わされた。

日本の敗戦、満州国の消滅、それから数年後、彼女はコンクリートで囲われた真っ暗な官房にいた。重度のアヘン中毒、精神病におかされた彼女はボロボロだった。すでに狂っていた。コンクリートの床に転げ落ちたまま、ベッドに戻ることも動くこともできなくなっていた。1946年、忘れ去られた彼女は誰に見取られることもなく静かに息を引き取った。41歳の若さであった。

文繡 (文綉/ぶんしゅう、Wenxiu)

一方婉容、文綉の二人は、一夫一婦制を建前とする外国租界では、彼らの妻妾同居は理解不能の奇習として人々の注目を浴びた。彼らは、紫禁城の奥深く世間から隔絶した生活とは異なり、誰の眼にもふれる市民生活をしていたのだ。特に側妃という立場の文綉は、公式な場面でしばしば無視され、招待されることはなかった。これは四書五経に親しみ、古典的な教養を誇る文綉には、耐え難かったに違いない。何といっても文綉は、かつての皇帝に選ばれた皇后に次ぐ淑妃だったのだ。

1931年、静園で暮らす文綉は、溥儀の下を離れ弁護士を立てて離婚訴訟を起こす。天津地方院に訴え、生活扶助料・贍養金50万元と分居別住を要求した。皇帝の座を降りたとはいえ、旧中国皇帝が裁判で訴えられえるという、前代未聞の事態となったのだ。

その後は、私立女学校の教師となるが、退職後は次第に貧しい生活をする様になり、1953年9月17日、北京で飢死に近い状態で死去する。

譚玉齢 (たん・ぎょくれい、Tan Yuling)

1920-1942。北京に満州族の貴族の子として生まれ、17歳の時、当時32歳の溥儀の側室となる。22歳で病死。他他拉貴人(たたらきじん)の名でも呼ばれる。

温厚でおだやかな性格で、最も寵愛を受けたといわれているが、宮仕えの5年後
わずか22才で謎の死を遂げており、溥儀はそれを後々まで日本軍による毒殺と疑っていた。

私の妻は…私の貴人は、非常に私との仲がよかったのであります。年は若くて23でありました。あるとき私の貴人は病気になりました。彼女は中国を愛し、即ち中国の国家を愛する人間でありました。そうして貴人は常に私に向って今はやむをえないから、できるだけ忍耐しましょう。そうして将来時が来たならば、失った満州国の地を中国にとり返すように致しましょう、と語っておりました。しかしながら、私の貴人は日本人に殺されたのであります。

出典『わが半生』愛新覚羅溥儀

李玉琴 (り・ぎょくきん、Li Yuqin)

1928-2001。長春郊外の貧農の生まれ。15歳の時に溥儀の「福貴人」となる。1956年、図書館で仕事を始める。1957年に離婚、1958年には結婚し、2人の子供を出産。溥儀の妻だったことにより、文化大革命の間は迫害を受ける。2001年死去、73歳。

譚玉齢が亡くなったあと、1943年日本軍は再度日本人の皇妃を迎える計画を立てる。それを阻止するため、溥儀は15歳と年若く教養も低い李玉琴を、扱い易さを理由に皇宮に迎えいれた。彼女は貧乏で電気もない生活に育ったが、単純で幼稚、庶民的で物怖じせず天真爛漫で明るい性格だったことが溥儀に気に入られた。

李玉琴は譚玉齢の死後、吉岡中佐によって連れてこられます。満洲国の首都・新京(現在の長春)の南嶺女子優級国民学校の生徒で15歳でした。溥儀の著書「わが半生」では「文化程度がやや低い」などと書かれていますが、宮中に入って勉強できると連れて来られ、妻よりも、下女並みの扱いを受けることになります。が、廃人と化した皇后婉容を最後まで世話したのも彼女でした。

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