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なぜ切腹!|3分でわかる千利休(せんりきゅう)

織田信長、豊臣秀吉に仕えた茶人の千利休(せんりきゅう)。最後は天下人となった秀吉に切腹を命じられその生涯を閉じます。死んでも自分の美学を貫き通した千利休(せんりきゅう)の追い求めた不足の美=足りないからこそ美しいというわびの精神は今も尚われわれ日本人の文化に強く根付いています。

更新日: 2018年05月08日

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◆千利休(せんりきゅう)縁の場所ご紹介◆

①侘び茶の大成

「不足の美」(不完全だからこそ美しい)に禅思想を採り込み、高価な名物茶碗を盲目的に有り難がるのではなく、日常生活で使っている雑器(塩壷など)を茶会に用いて茶の湯の簡素化に努めた。そして、精神的充足を追究し、“侘び”(枯淡)を求めた。

わび茶(わびちゃ、侘茶、侘び茶)は、狭義には茶の湯の一様式。書院における豪華な茶の湯に対し、村田珠光以後、安土桃山時代に流行し、千利休が完成させた茶の湯で、簡素簡略の境地すなわち「わび」の精神を重んじたもの。また広義には、千利休系統の茶道全体を指す。

“侘び”の対象を茶道具だけでなく、茶室の構造やお点前の作法など、茶会全体の様式にまで拡大した。また、当時は茶器の大半が中国・朝鮮からの輸入品であったが、利休は新たに樂茶碗など茶道具を創作し、掛物には禅の「枯淡閑寂」の精神を反映させた水墨画を選んだ。利休は“これ以上何も削れない”という極限まで無駄を削って緊張感を生み出し、村田珠光から100年を経て侘び茶を大成させた。

②千利休が追い求めた美学

現在国内には国宝の茶室が三棟あります。待庵、犬山の如庵、大徳寺の密庵であり、利休の作として伝えられる確かなものは待庵のみとなっていて、にじり口が設けられた小間の茶室であり、数寄屋造りの原型となっています。

●外観です。

●妙喜庵(みょうきあん)という寺院内に存在。
場所は京都府乙訓郡大山崎町にあります。

●住所
〒618-0071 京都府乙訓郡大山崎町竜光56

大河ドラマ等でもよく登場する
茶室への入り口。

■比較 : 秀吉の追い求めた茶室

利休のわび茶とは反対に秀吉の求めて茶の道は
豪華絢爛な黄金の茶室。
利休との価値観の違い、天下人への物怖じしない
その態度が秀吉の逆鱗に触れ切腹へと追いやれれて
いきます。

③千利休(せんりきゅう)の生涯

和泉国・堺の商家(屋号「魚屋(ととや)」)の生まれ。家業は納屋衆(倉庫業)。父は田中与兵衛(田中與兵衞)、母の法名は月岑(げっしん)妙珎、妹は宗円(茶道久田流へ続く)。若年より茶の湯に親しみ、17歳で北向道陳、ついで武野紹鴎に師事し、師とともに茶の湯の改革に取り組んだ。堺の南宗寺に参禅し、その本山である京都郊外紫野の大徳寺とも親しく交わった。織田信長が堺を直轄地としたときに茶頭として雇われた。

本能寺の変の後は豊臣秀吉に仕えた。天正13年(1585年)10月の秀吉の正親町天皇への禁中献茶に奉仕し、このとき宮中参内するため居士号「利休」を勅賜される。天正15年(1587年)の北野大茶会を主管し、一時は秀吉の重い信任を受けた。また黄金の茶室の設計などを行う一方、草庵茶室の創出・楽茶碗の製作・竹の花入の使用をはじめるなど、わび茶の完成へと向かっていく。秀吉の聚楽城内に屋敷を構え聚楽第の築庭にも関わり、禄も3千石を賜わるなど、茶人として名声と権威を誇った。秀吉の政事にも大きく関わっており、大友宗麟は大坂城を訪れた際に豊臣秀長から「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」と耳打ちされた。

④千利休ゆかりの物

千の利休が作った竹の花入れ。

画像からもわかるとおり、真正面に
ひび割れを箇所をわざと使用したの
でしょう。どこかしら、奥ゆかしさを
感じさせます。

大河ドラマ軍師官兵衛では、この
花いれを傲慢に投げ捨てる秀吉、
その傍らに座る千利休のコントラ
ストが印象的でした。

千利休が愛したと伝わる黒樂茶碗

こちらも大河ドラマ軍師半兵衛で
あえて秀吉に差し出すシーンが
描かれていました。

⑤千利休(せんりきゅう)切腹へ

天正19年(1591年)、利休は突然秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられる。前田利家や、利休七哲のうち古田織部、細川忠興ら大名である弟子たちが奔走したが助命は適わず、京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられる。享年70。切腹に際しては、弟子の大名たちが利休奪還を図る恐れがあることから、秀吉の命令を受けた上杉景勝の軍勢が屋敷を取り囲んだと伝えられる。死後、利休の首は一条戻橋で梟首された。首は賜死の一因ともされる大徳寺三門上の木像に踏ませる形でさらされたという。

⑥秀吉から切腹を命ぜられた理由は未だ定かではない

■考えられる理由

・大徳寺楼門(金毛閣)改修に当たって増上慢があったため(自身の雪駄履きの木像を楼門の二階に設置し、その下を秀吉に通らせた)

・安価の茶器類を高額で売り渡した(売僧(まいす)の行い)

・天皇陵の石を勝手に持ち出し手水鉢や庭石などに使った。

・秀吉と茶道に対する考え方で対立した。

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