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山口組三代目組長代行 一和会会長 山本広とはどういう男なのか?

山口組 一和会 山本広 竹中正久 ヤクザ 山一抗争

更新日: 2014年10月15日

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akiratetsuoさん

山本広とは

元三代目山口組組長代行
元一和会会長

山本 広(やまもと ひろし、1925年2月15日 - 1993年8月27日)は、日本のヤクザ、暴力団・一和会会長、三代目山口組組長代行。通称は山広(やまひろ)

兵庫県津名郡都志村(現:洲本市五色町都志)で出口千代吉の三男として生まれる。 2歳の時、姉の嫁ぎ先に養子に出て、以降「山本」姓を名乗る。 神戸市兵庫区の兵庫高等小学校を卒業後、一時工員として働いたが、1942年、海軍へ徴兵され、南方方面を転戦して海軍一等兵曹となって1947年に復員した

山本広への関係者の評価

山口組三代目組長・田岡一雄、山口組四代目竹中正久からケジメの付けられない男として揶揄された。

筆頭の若頭補佐という最高幹部にありながら、
松田組との大阪戦争に対して消極的であるばかりか、
田岡がベラミ事件で殺されかけ、対等の手打ちなどありえないのに、
田岡の発言を曲解して、率先して手打ちに奔走した事

大阪戦争中に絶縁された前若頭補佐「ボンノ」こと菅谷政雄が、
絶縁後も引退も菅谷組の解散も拒否していた際に、
ケジメ(菅谷への解散・引退の説得もしくは菅谷の殺害)をつける
役回りでありながら、それを拒否した事、が原因として挙げられる

その大きな失点により、田岡、竹中ら武闘派最高幹部の中では、
ケジメを先送りに伸ばし、口癖が「2~3日待て」だった為
「あさっての広ちゃん」と揶揄され、
「山広は難局がふりかかると、組織を解散させかねない男」
という烙印を押された

3代目山口組長・田岡一雄が死去 一和会結成

文子未亡人は「お父ちゃんは生前、俺の跡目は山健、山健の下の若頭は竹中や、と言っていた」と関係者に言い出した。この発言の影響力は大きく昭和59年6月5日、山口組定例会で竹中の4代目襲名を披露した

これに対して組長代行の山本広(山広組組長/山広)は反発し、同月13日に記者会見で゛襲名は認められない゛として山口組との脱退と新たに「一和会」結成を宣言した

-死者25人の大戦争勃発- 山一抗争

右・一和会会長山本広
左・山口組四代目組長竹中正久

山広が山口組を脱退した時点での勢力は山口組は約4700人、一和会は約6000人と一和会が有利であった。ところが、一和会に付いた組は山口組の紋章が無くなると途端に稼ぎが激減した。一方、山口組も一和会に付いた組に対して説得を続けた結果、分裂1ヵ月後には山口組約8000人、一和会約4000人と勢力は逆転し、翌60年には山口組10400人、一和会2800人になっていた。

一和会は、このままでは、会は壊滅する。これを打破するには竹中組長の暗殺以外にはないと決意し山広組行動隊を組織した。昭和60年1月26日、8人の行動隊は竹中組長のマンションに張り込み、ロビーで射殺した。ボディガードの2人は即死、竹中組長は翌日病院で死亡した。

これに激怒した山口組は一和会に対して報復攻撃を始めた。その結果、317件の抗争を起こし25人が死亡(山口組8人、一和会17人)、70人が負傷した。この後、一和会は解散し山口組は更に勢力を増していった。

一和会解散後 晩年

神戸で生活したが、1993年8月27日に病院で68歳(数え年で69歳)にて死去した

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