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imoaruonnaさん

『従容録』第二十則「地蔵親切」の評唱(加藤)より

口、鼻に問うて曰く、飲食も我れに在り、言語も我れに在り、汝は何の功あれば、吾が上に在るや。鼻曰く、五嶽の中、中嶽尊に居す。鼻復た眼に問う、汝何ぞ上に在るや。眼曰く、吾れは日月に同じ。寔に照鑑の功あり、敢えて眉に問う、何の功有れば吾が上に処るや。眉曰く、我れ寔に功無し、上意に居ることを慚づ、儻し容されば下に在らん。眼、眉上に在りて看よ、儞甚麼の面孔ぞ。是を以て宝月の明禅師の上堂に云く、古者は道う、眼に在りては見と曰い、耳に在りては聞と曰うと。且く道え眉毛に在りては喚んで什麼と作さんや。良久して云く、憂うるときんば慼え、楽しむときんば同じく歓ぶ。人皆な有用の用を知って無用の大用を知らず。且く道え、賓頭盧尊者は両手眉を撥う意旨如何ん。師、眉を撥って云く、猫と。(加藤咄堂)

敢(あ)えて眉に問う、何の功(こう)有(あ)れば吾(わ)が上に処(お)るや。眉曰く、我れ寔(まこと)に功無し、上意に居ることを慚(は)づ、儻(も)し容(ゆる)されば下(した)に在(あ)らん(加藤咄堂)

そこで、この日月の眼が、眉毛に向って食ってかかった。
『上位といへば、眉毛が顔中で一番上位にゐる。どういう功労があるか知らぬが、見たところ、年が年中、寝そべってばかりゐて、何も仕事をしないぢゃないか』
と、いはれても眉毛も恐縮した様子で、
『お仰せ御尤もです。無能な私が、徒らに諸君の上位にあって、最高の椅子を占めてゐるといふことは、大に慚て居ります。出来ることなら、あなたに、この上位をお譲り申したい』(加藤咄堂)

③鼻復(ま)た眼に問う、汝何ぞ上に在(あ)るや。眼曰く、吾(わ)れは日月に同じ。寔(まこと)に照鑑(しょうかん)の功あり(加藤咄堂)

鼻が眼に問うた。
『お前は、どうして俺の上にゐるのだ。』――理由の如何(いかん)に依(よ)っては、そのままにはして置かぬぞ――といった見幕です。スルト眼はこれに答えて、
『眼は日月も同じだ。眼がなかったら暗闇になるではないか』
と、日月を持ち出されたので、嵩山(すうざん)を気取った鼻もペチンコになってしまった。(加藤咄堂)

『爾雅』(じが)とは

『爾雅』とは、十三経の一つ。言語や事物を解釈した最古の字書。「詩経」の語を多く含む。秦・漢代に成立したものという。(漢字典より)

②鼻曰く、五嶽の中、中嶽尊に居す

鼻が之(これ)に答えて『そんな愚痴(ぐち)いうものじゃない、爾雅(じが)という書物に、華山(かざん)、泰山(たいざん)、崇山(すうざん)、恒山(こうざん)、衡山(こうざん)の五嶽の中で、中嶽といわれる崇山が一番尊位(そんい)に居るといってある。(加藤咄堂)

①口、鼻に問うて曰く、飲食も我れに在り、言語も我れに在り、汝は何の功あれば、吾が上に在るや

口が鼻に向かって『飲み食いもわしの仕事だし、言葉を出すのも、この口がいたすのだ。この口は諸君の為めに、一日中働き通してゐる。ところが、君は僕の上に位して、鼻高々と威張ってゐるが、一体どんな功労があるのか、それを承りたい』と、不平がましく申しますと、鼻が之に答えて……(加藤咄堂)

鎌倉からかへってから

漱石の鎌倉における参禅体験は明治二十七年(一八九四)、漱石二十八歳のときのことである。
また『門』が書かれたのは、明治四十三年のことで、この年、漱石は四十四歳である。

漱石、『禅門法語集』に書き入れ

松岡譲(ゆずる)の『漱石 人とその文学』によると、漱石は、
「鎌倉からかへって以来、公案を工夫する旁(かたわ)ら、禅門の書をいろいろ読んで居たものと思はれる」(同、一〇四頁)とある。したがって、漱石が『禅門法語集』に書き入れ(手沢)を施したのはこのころかと思われる。
この手沢本(しゅたくぼん)は、東北大学附属図書館に蔵されている

釈宗活をめぐる人びと

漱石の弟子・森田草平と平塚らいてうは心中事件をおこしている。いわゆる「塩原事件」である。この平塚らいてうもまた、帰源院の住持・釈宗活のもとで参禅している。

漱石と薩摩・西郷

漱石の書籍中に、
 「西郷」や「薩摩」
に関するものがあるのは、興味深い。

漱石の俳句――帰源院即事

仏性は白き桔梗にこそあらめ

山寺に湯ざめを悔る今朝の秋

*帰源院とは、漱石の小説(門)中では「一窓庵」としてえがかれている

漱石の俳句から――禅僧宗活に対す

其許(そこもと)は案山子(かかし)に似たる和尚かな
             (俳句 明治三十年、全集12)
其許(そこもと)とは、もちろん、漱石が鎌倉円覚寺で参禅したおりにお世話になった帰源院(一窓庵)の庵主・釈宗活師のことである。
師は、大寺に住持することなく、在家の人を相手に禅の道を唱導した。
こんにちものこっている在家禅の「人間禅教団」である。
小生にも親しく声をかけてくださった芳賀老師は、人間禅出身の方であった。

漱石と釈宗活 2

「夏目さん開静(かいじょう)ですよ」
不図(ふと)眼を覚ますと宗活さんに揺り起されてゐた。時計を見るとまだ午前二時の未明、ゴォーンと大鐘が鳴る、禅堂では引磬(いんきん)の八釜(やかま)しい音がする。

(明治四三、四、一八「談話」全集16巻)

漱石と釈宗活

宗活さんは剽軽な坊さんだと思った。
頓て此剽軽な和尚も傍にゐた他の和尚も帰って了(しま)って、私一人ぽっち、に残され、禅寺の枯れた匂ひが身を圧して雪舟(せっしゅう)の描いた達磨(だるま)が大眼玉をむいて来そうに思はれる。スッポリ坊主臭い煎餅蒲団を頭から被って鎌倉は頼朝時代北條時代もない、夢の国へと辿った
(明治四三、四、一八「談話」全集16巻)

塩山 拔隊禅師『仮名法語』

拔隊禅師
仮名法語 輪廻の苦を免れんと思はば、直に成仏の道を知るべし。成仏の道とは、自心を悟る是れなり。自心と云うは、父母もいまだ生れず、わが身もいまだなかりしさきよりして、今に至るまで移り変ることなくして、一切衆生の本性なる故に、是れを本来の面目と云えり

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