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imoaruonnaさん

南無のかたち:三つの祈りのかたち

四国八十八ヶ所の遍路では、空海さんを慕い、南無大師遍照金剛(なむ・だいし・へんじょう・こんごう)と唱える。
南無(ナム)とは、帰依(きえ)することである。帰命(きみょう)ともいう。

南無には、三つのかたちがあることが知られている。

一つは、いま掲げた南無大師遍照金剛に見られる「僧」への帰依である。
真言宗で唱えられる。

帰依とは、「大辞泉」によると、「神仏や高僧を信じてその力にすがること」と。
あるいは、その用例に「三宝に帰依する」とある。
三宝(さんぼう)とは、仏、法、僧のことである。

したがってまず、南無大師遍照金剛は、「僧への帰依」である。

つぎに「仏への帰依」は、南無阿弥陀仏などがそうで、阿弥陀仏(あみだぶつ)への帰依である。南無阿弥陀仏を六字の名号(みょうごう)ともいう。阿弥陀仏を称(とな)えることを称名(しょうみょう)という。
念仏ともいうが、念とは、オモウことであるから、念仏とは仏を念ずる(すなわち、想う)。もとは、南無仏などが、その観想念仏である。
それより発達して口称(くしょう)の念仏となったものであろう。
この南無阿弥陀仏が、「仏への帰依」である。
浄土宗や浄土真宗でとなえられる。

三つの南無のうち、残るは、「法への帰依」である。
これは南無妙法蓮華経などが、そうである。いわゆる唱題(しょうだい)である。
法は、仏教を開かれたお釈迦さまの教えのことである。それが法(みおしえ)をしるしたお経典である。み法(みのり)への帰依、それが「法への帰依」である。
日蓮宗であげられる。

以上、三宝への帰依を、祈りのかたち、としてあげてみた

歩く宗教:遍路

若い時分、四国遍路をしてみたいと思ったことがある。
京都栂尾(トガノオ)の明恵(みょうえ)サンではないけれども、
インドへ行きたいともおもった。
いずれもいまだ果すことができていない。

歩く宗教の代表といえば、それは巡礼であろうが、
四国にかぎっては、それを巡礼とよばずに、
「遍路」とよんでいる。
遍路には二通りあって、一番から順路どおりにめぐる「順打ち」があり、
また、終着地点から逆にまわるものを「逆打ち」などという。

お遍路さんがかぶっている笠には「同行二人」と墨書してある。
同行(どうぎょう)人とは、お大師様こと弘法大師(こうぼうだいし)空海上人(くうかい・しょうにん)のことである。
弘法大師は、人生行路を伴(とも)に歩いて行こう、といざなってくださる。
だからこれは「順打ち」コースの遍路にはぴったりなキーワードである。

いっぽう「逆打ち」の旅(遍路)には、どんな意味がこめられているのだろうか。
こちらは、お大師さまが同行してくださる「順打ち」の遍路とはちがって、
むこうからやってこられるお大師様と「出会う」、そんな遍路旅である。
いずれにしろ、この四国をめぐる旅には、お大師さまの存在が欠かせない。
だから「南無大師遍照金剛」ととなえ慕(した)うのである。
遍照金剛(へんじょう・こんごう)とは、空海さんのことである。
これから季節は、秋にむかうが、遍路はやはり春のものだろう。
秋遍路では、なにかもの哀しいひびきがつきまとう。
禅僧でも四国遍路めぐりをされた方がいる。
「歩く宗教」の醍醐味(だいごみ)を熟知しておられるからこそであろう。

日本の禅24流

後鳥羽天皇の建久二年(一一九一)、栄西禅師(1流)がわが国に禅を伝来、後村上天皇の正平六年(一三五一、北朝の観応二)に東陵永璵禅師(24流)(元明州天童雲 岫の法嗣)がわが朝に渡来するまでの百六十年間にわたって伝えられた、禅の流伝について二十四流に分類したものである。これを「二十四流の禅」という。

「二十四流」といわれる日本の禅のうち、三流――つまり第二の道元、第十五の東明派の東明慧日、第二十四の東陵派の東陵永璵(慈済禅師)(24流)は、いずれも曹洞禅である。

永平精舎:越前「永平寺」の由来

永平精舎(えいへい・しょうじゃ)を越州(えっしゅう)に築いて居(こ)す(月坡禅師語録)

日本の禅宗といえば、臨済宗、黄檗宗、曹洞宗がある。臨済宗は、京都の妙心寺をはじめ南禅寺・天龍寺など、あるいは鎌倉の円覚寺や建仁寺など多数ある。
黄檗宗は、隠元隆琦を開祖とする、京都宇治の黄檗山万福寺でよく知られている。
日本の三禅宗の一つで、道元禅師の開創になる曹洞(そうとう)宗の永平寺は山号を吉祥山といい、福井県吉田郡永平寺町にある。また曹洞宗4世の瑩山紹瑾禅師の総持寺(鶴見)もある。

永平寺は、はじめ寛元二年に開堂して傘松峰大仏寺と称していたが、
のち寛元四年に現在の永平寺に改められた(「禅学大辞典」)。
「月坡禅師語録」によると、

 永平精舎を越州に築いて居す

とある。

精舎とは梵語(ぼんご)の毘訶羅(びから)の訳で、
精練なる仏法修行者の居る処(ところ)という義、すなわち寺院のことである。

『国訳禅宗叢書』第九巻「国訳月坡禅師語録」の脚注によると、おおよそ、このようにある。

仏教が初めて中国に渡来せる時の年、今、日域真の仏法流通は道元禅師よりなりとの意より、
名付くるに「永平」を以てせりと伝う、永平寺は越前吉田郡志比荘にあり

仏教が中国に伝わったのは、「後漢の明帝永平一〇年」のことで、


迦葉摩騰(かしょう・まとう)・竺法蘭(じくほうらん)が、
仏像や経典を白馬に乗せて洛陽(らくよう)に来るや、
帝は二僧を鴻臚寺(こうろじ)に居住せしめ(「禅学大辞典」)、

そうして中国におけるはじめての仏寺である「白馬寺」(はくばじ)を建てて、
かれらを訳経事業に従事させたという。

その中国に白馬寺ができたときの元号「永平」にちなみ、
道元は、もともと大仏寺と称していたものを改めて「永平寺」と称した、
その委細は、上述のごとくである。

文中の「日域」(にちいき)とは、日本の異名であるから、
この国における新たな仏教(禅)の流通(るずう:仏法がひろまり伝わること)は、
道元よりはじまるのだ(日域真の仏法流通は道元禅師よりなり)という、禅師自身のつよい自負と意志とがみてとれる。
そしてその気概が、永平寺という新寺名への改称となってあらわれでたといえよう

向正面:むこうじょうめん、とは

相撲をみていると、
  向正面:むこうじょうめん、
ということばを聞く。
向正面とは、行司さんがたっている側のことである。
つまり、その反対側が、正面、である。
正面は、北側のことであり、向正面は、南側のことである。
わかりにくいが、
行司さんの位置を中心に据えると、
右側は、実際は左側にあたり、「西」ということになる。
逆に、左側は、実際は右側にあたり、「東」ということになる。
有り体にいうと、君子は南面する、という思想がもとになった考えであるから、
まずは、自らが北の位置にあって、南に面していると想定するほうがよさそうである。
すると、われわれからみて、右に当るものは、左にあたり、
東にあるものは、西にあたろう。
京都市中の地理概念は、だいたい、これで結着がつく。
北山にむかって、右は右京のはずなのに、現実は左京区と呼ぶ。
左にある区域は、右京区といわれる。
あるいは、京都御所の、左近の桜、右近の橘、もこれですべて結着がつこう。
つまり、われわれからみて右に植えてあるもの(実際は左ということになるが)は「左近の桜」であり、同じように左手に植えてあるものは、(実際は右手ということになるから)「右近の橘」と呼ぶことになる。

一転語(いってんご)

南泉禅師は、両(ふた)つの堂の僧たちに、片手に仔猫(こねこ)をつまみあげ、もう片手には利刃(りとう)をひっさげて、「さぁ、お前たち、この仔猫を救えるような、なんか、ひと言をいってみろ」とせまっている。
 そのひと言を、禅の語録は「一転語」(いってんご)と表現している。
 この一転語とは、
  転語は迷(まよい)を転じて悟(さとり)を得る転身の語
とは、増永霊鳳氏もいっている(第九十六則「三転語」『碧巌録』一四七頁)ように、
学人(修行者)の心境に一大転換をもたらすような一句の謂(いい)である。
 はたして、そのような一語が、さきほどまで掴み合いをしていた杜撰(ずさん:でたらめ)な雲水僧たちの脳裏に、咄嗟(とっさ)にうかび出てくるものか、どうか。
『無門関』や『ヘキガン録』は、案のじょう、
  大衆(学人、修行者)は無語だった
つまり、かれらは、そのとき、ひと言も発することができなかった、とある。

東西両堂の僧たちのあらそい

東西両堂の僧たちのあらそい(東西の両堂、猫児を争う)を、『従容録』(しょうようろく)第九則の頌(じゅ)では、
 両堂の雲水、尽(ことごと)く紛拏(ふんど)す
とえがいている。
「紛拏」(あるいは紛挐)とは、そのうち、紛は、入り乱れるさまをいい、拏は、つかむ、の意であるから、これは単なる、言語の争論のことではない。このことばから、文字通り、掴み合い・とっ組みあいした、そのような様相がみてとれよう。
 騒がしいさ中に、その僧院(叢林)のあるじたる、南泉普願禅師は、とうどう出陣となって、大衆の前に姿を現されたのである。

難問中の難問に挑戦

『碧巌録』、『無門関』そして『従容録』中のいずれの語録中にも、師の南泉普願から、
「道(い)得(え)ば即ち〔猫児を〕斬(き)らず」(何か一言をいえ)と問われた大衆たちのはなしが出てくる。
が、かれらは弟子たちはいずれも、無語であった、とある。
師の南泉和尚に問いかけられた、その会下(グループ)の大衆たちは、
なんとも、適切な回答を示すことができなかったのである。
われわれとてもこれは同じであろう。
これは難問中の難問と認識すべき問題なのである。
考えてもみよ、
回答不可能な問いを与えられ、いかように答えることができようか。
あれこれと解決の緒(いとぐち)をさぐるけれども、
ただ、オロオロと、そのまわりわ、さまようばかりである。

南泉(普願)、両堂に猫を争う」(猫をめぐる争い)―― 『碧巌録』六三則

南泉、両堂(東西の堂)に猫を争う――『碧巌録』六三則

猫児(ねこ)を争う…道(い)得(え)ば即ち斬(き)らず…衆対(たい)なし…泉、猫児を斬って両段(りょうだん:ふたつ)と為(な)す

衆とは、大衆、つまり、学人(修行者)の意。対とは、対(こた)うる、の意。要するに、なんの応答もなかった、ということ
両段とは、一刀両断というときの、あの「両断」である(まっぷたつに斬る、ということ)

外字:中国地名/人名、その外

丱歳・かんさい(総角:アゲマキの頃)  拄杖・しゅじょう(つえ)  鏌鎁ばくや(名剣) 
儞・なんじ  你・なんじ  甎・かわら/しきがわら  擎・ささげる  㘞・カァツ  
久嚮龍潭・きゅうきょうりゅうたん(久しく龍潭を嚮〈した〉う)  孤筇(こきょう……「臨刃偈」中にみえる。竹杖のこと) 狸奴白牯・りぬびゃっこ(狸奴はネコ、白牯は白い牡牛〈おうし〉のこと)  略彴りくしゃく(丸木橋)
乾屎橛・かんしけつ(従来「クソ掻き箆」と解されたのは誤りで、棒状のまま乾燥したクソそのものをいう。入矢監修『禅語辞典』より)
■地名■
婺州・ぶしゅう  鄂州・がくしゅう  泐潭・ろくたん  澧州・れいしゅう  閩びん 
鄆州うんしゅう   沂州ぎしゅう
蘄州・きしゅう(蘄州の黄梅には、唐代の五祖禅師・弘忍が住した。その住山を五祖山という)
潼関・どうかん  霅川
■人名■
東陵永璵(慈済禅師)(24流)  巌頭全豁(奯)・がんとう/ぜんかつ 鄭鷓鴣ていしゃこ

諸人は十二時に使わる

諸人は十二時に使わる、我れは十二時を使い得たり(趙州禅師)

衆生は十二時中、煩悩の念に使われて、本有の性に背く(大覚禅師坐禅論)

十二時とは、「一昼夜のこと。時間。昼夜一日じゅう」(中村)

拄杖は僧の携うる杖のこと

拄杖は僧の携うる杖のことなり、禅僧の之を携うる所以は、行脚の時危に乗じ、険を渉るに力を扶くるが為なり。昔仏の之を許されたる由縁に二あり、一には老痩無力の者、二には病身の者。(『国訳禅宗叢書』第九巻「国訳義雲和尚語録」三頁脚注)

南化と武田信玄公の禅問答

信玄公、惣別(そうべつ:あらゆること)出家衆(しゅっけしゅ)に対面は、毘沙門堂(びしゃもんどう)においてなさるる、とある。
たとえば、快川紹喜の弟子、南化玄興(なんか・げんこう)(一五三八―一六〇四)と信玄の問答を見ると、それを『甲陽軍鑑』品第四十には、
 「いかなるか是れ過去仏」
と、信玄は南化(なんか)和尚に問い、和尚はまた、
 「金烏(きんう)飛んで海に入る」
と答えている。金烏とは、金鴉(きんあ)ともいい、太陽の異称である。
信玄はさらに「いかなるか是れ現在仏」という問いには、
「暁天(ぎょうてん)、旧(ふる)きに依(よ)って一輪紅なり」(暁天依旧一輪紅)と答えている。
この二句は、かの『十牛図』(じゅうぎゅうず)中の頌(じゅ:詩文)からとられている。
それでは「いかなるか是れ未来仏」という信玄のさらなる問いに、南化和尚はいかに答えるのであろうか。
信玄は三際(さんざい:過去・現在・未来)の仏、つまり仏のありかたについて「時間的」には過現未のそれぞれの仏のありかたを問うて、どのように信玄自身は、とらえるべきか、について質問している

水は杖(つえ)をもって試む

仗とは、拄杖(シュジョウ)のこと。この仗は、人の丈(たけ)のほぼ二倍の長さという。病躯をささえたすけたり、あるいは行脚のときにたずさえるものという。
渡河のときには、この仗があると助かろう。水深を探るには、仗をもってする。したがってこれを「水は杖をもって試む(探る、ということ)」と表現する。
図像としては、黄檗(おうばく)の隠元(いんげん)禅師が描かれた図像には、この拄杖がそえて描かれている。

京都・万福寺蔵の拄杖(江戸時代、十七世紀)は長さ二一〇・五、最大径は二・八
(「禅―心をかたちに―」のカタログより)

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