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imoaruonnaさん

人間禅教団は、両忘禅協会がもとになった

人間禅教団とは:

人間禅教団の芳賀洞然老師(幸四郎。東京教育大学名誉教授。一九〇八―一九九六)は、『禅入門』のなかで、このようにいっている。

『門』を読まれた方はご承知でもあろうが、その終りのほうに、この小説の主人公宗助が鎌倉の円覚寺を訪れ、しばらく禅の修行をするが、悟りを開くまでにいたらず、むなしく退山する場面がある。この場面は、漱石自身が明治二十七年(一八九四)実際に円覚寺で体験したことを描写したもので、そこに登場する宗助は漱石自身、老師は禅の世界的宣布に先駆した傑僧洪嶽宗演**であり、宜道という青年僧は筆者(芳賀師)の現に所属している人間禅教団の前身である両 忘禅協会をおこした輟翁宗活***その人である

宜道とは、鎌倉一窓院の庵主のこと。

また漱石は、円覚寺に参禅したその三年ののちに、ふたたびおとずれて、こうよんでいる。

「帰源院即事 仏性は白き桔梗にこそあらめ」

「禅僧宗活に対す 其許は案山子に似たる和尚かな」

* 老師とは、ゼン・マスターのこと
** 釈宗演老師。漱石参禅の師であり、漱石の葬式の導師をもつとめる。そのとき漱石は老師より公案「父母未生已前の本来の面目」を与えられている。父母があってこその自己であるのに、その父母がまだ生まれない前のあなた自身のほんとうの姿とはどういうものか、といっている。これは天地未分已前などともいう
*** 宜道(ぎどう)とは 輟翁宗活こと釈宗活は、はじめ鎌倉円覚寺の今北洪川(一八一六︱一八九二)師のもとで、その没後は釈宗演師に就いて禅をまなんで、その法を嗣(つ)いでいる。
両忘(りょうぼう)禅協会や、その後続である人間禅教団は在家の信者(居士:こじ)を中心としている。

芳賀老師はもう亡くなられた。
筆者は、人間禅教団の会員ではなかったが、いろいろとお教えを乞うことができた。
慈父のごとき存在のお方だと、今も思っている。

僧行人を見て礼あり……脚注に「僧、徑(みち)を行くこと」とある。

漱石の小説『行人』のタイトルをめぐって、いろんな説がある。
何故、そういう問題が発生するのか。
それは、ひとえに漱石自身の、
おのれの小説の題名のつけ方から、その問題はうまれた。

行人を、ギョウニンとよべば、それは、「修行者」の謂(いい)である。

そのタイトルをめぐって、あれこれの解釈が、
漱石のお弟子さんの中からもうまれた。

仕方がない。

誰もが、そのゆえんを知らないのだから。

僧、行人を見て礼あり

禅録中にある語は、

……脚注に「僧、徑を行くこと」

としるす。

しかも、行人、に、漱石は「こうじん」と命名してはいないが、

しかし、禅録をみると、行人に、「こうじん」とフリガナが降ってある。

漱石自身、このタイトルの読み方について、何の示唆も与えていないとすれば、

漱石が頼った禅録にその起源をもとめる他はなかろう。

つまり、

これは、こうじん、とタイトルすべきだろう

黄巣軍による乱妨は想像を絶する

黄巣の乱は、一種の起義だといわれる。起義とは、義を起こす、ということ。
つまり、「正義によって兵を起こすこと」をいう。いわゆる農民一揆、のたぐいのことを、そう称(い)う。
したがって、そういう意味からも、この乱を評価しよう、もう一度見直そう、とした、そんな時期もあったのは確かである。
しかし黄巣軍(偽政府)による乱妨(強奪、掠奪)は、ことのほか凄まじかったようで、それはわれわれの想像をはるかに超えるもののようだ。
歴史の記録は、乱を起義とたたえるいっぽうで、それはとんでもない誤解だとしらしめている。
そんな乱が、黄巣による唐末の叛乱の実体だった。

碧巌録中の「黄巣の乱」:おまえは、黄巣の剣をえてきたか

公案集『碧巌録』中に「黄巣の乱」にふれたものがある。
岩波文庫版(入矢ほか)では第六六則のタイトルに「巌頭、什麼処(いずこ)よりか来たる」とある。あるいは「巌頭収黄巣剣」と題する本もある。
この則(公案)の主人公は、徳山宣鑑(とくさん・せんかん)禅師の弟子巌頭全豁(がんとう・ぜんかつ)である。それに、来訪僧とである。

黄巣の乱」の終結は、唐の僖宗(きそう)の中和四年(八八四)である。このときこの公案の主、巌頭は五十七歳である。いっぽう法友である雪峰は六十三歳。

巌頭が賊のために殺されたのは、僖宗の光啓三年(八八七)、六十のときである。したがって、この公案であつかわれているのは、巌頭晩年の三年間の出来事である。

黄巣はそれ以前の中和四年に滅ぼされているが、当時はまだ、黄巣の残党が跋扈していたのが、この公案の底流にあるのがわかる。

さてタイトルにもあった「巌頭収黄巣剣」の黄巣剣とは、『碧巌録詳解』によると、

大内青巒(せいらん)先生は『資治通鑑』(しじつがん)(宋司馬光撰)に記載してある故事に基き、この剣を「有物落天、見之乃剣也、銘曰天賜黄巣」の剣をさしたものであると解説して居られる

とある。天より落下物があり、それをみると剣だった。その剣の銘文には、「天が黄巣に賜った」と記されていた。

だから、そこには、おまえ(黄巣)が天下を統一して平らかにしてほしい、との意がある。じっさい黄巣は、そう受けとった。

そこで『資治通鑑』のそれとおぼしき(該当)箇所をさぐってみたが、残念ながら、その記事はみつけることはできなかった。

ただし、黄巣が天より剣を賜った、というはなしは、ひろく流布していたらしい。

「黄巣の乱」のとき、唐代の禅の巨匠たちはすでに没している

この「黄巣の乱」ときには、雪峰や巌頭の師、徳山宣鑑ばかりか、もういっぽう雄・臨済義玄も、そして欽山文邃の師である洞山良价の禅匠もすでに亡くなっている。

なお、武宗による「廃仏」はまた、

 武宗の廃教(釈氏稽古略)とか
 武宗の搜揚(宋高僧伝)
 武宗の汰教(釈氏稽古略)
 武宗の滅教(従容録)
 武宗の沙汰(仏祖統紀)
 会昌の沙汰(釈氏稽古略)
 武宗の毀教(宋高僧伝)

などと種々の呼び名で表現されている。

黄巣の乱

唐末には三つの大事件がおこり、そのうちの、塩の密売人黄巣(こうそう)による乱は、
唐朝そのものを滅亡においこむ事変へと発展していった。

 その三大叛乱とは、懿宗(いそう)帝(宣宗〈せんそう〉帝の長男)の八五九年(大中一三。わか朝の清和帝のみ代)十二月の、
①「裘甫(きゅうほ)の乱」、

 懿宗帝の八六八年七月(咸通〈かんつう〉九)には、
②「龐勛(ほうくん)の乱」、

 それにここでのべる僖宗(きそう)帝(懿宗の五男)の八七五年(乾符〈けんぷ〉二)の
③「黄巣の乱」、

以上の三つである。
 専売を行って利益を独占することを「榷利」(かくり)というが、『中国民衆叛乱史』によると、

 唐朝は安史の乱中より榷塩法(かくえんほう)を行ない、その価格を年々つり上げて収入の増大を図ったが、これに対して塩の密売(私塩)商人が発生し、華北、華中の間を武装した商人隊が横行した

 この乱の首謀者は、王仙芝(おうせんし)と、それに呼応して立ち上がった黄巣とである。かれらこそがその私塩商人(塩の密売人)であった。
 また『釈氏稽古略』によると、

〔黄〕巣は騎射を善くし、任侠(おとこぎ)を喜び、粗〻書傅に渉る。屢〻(しばしば)、進士(しんし)に挙れども第(てい)せず。遂に盗と為(な)って、〔王〕仙芝とともに州県を攻剽(こうひょう)して山東に横行す。民の重歛(じゅうれん)に困むや争って之れに帰し、数月の間に衆は数万に至る。

とあって、過重なる税の負担になやむ民衆は、はじめ数千人であったが、あっという間に数万人にふくれあがっていっている。

 「粗〻(ほぼ)書傅に渉(わた)る」とは、書籍のことについても、ある程度は通じていた、とある。「進士に挙(あが)れども第(てい)せず」とあように、学識の面においても、かれ黄巣は、ただの生半可(ディレッタント)でなかったことを物語っているのである。

 なお、騎射とは、騎乗にあって弓をよく射ること。
 第(てい)せず、とは、科挙試験に落第してしまったということ。

 なお、この唐末には宦官(かんがん)が横行していたのである。

祈りのすがた

浄土宗と浄土真宗は、阿弥陀様を本尊としている。
しかし、お像をみると、この二つの宗派では、本尊観に、あきらかな違いがある。
浄土宗で尊ぶ阿弥陀像の多くは、座像である。
これに対して浄土宗からわかれ出た浄土真宗の阿弥陀様は「立像」が多いようにおもう。

坐っている阿弥陀様のほうは、「定」(じょう。坐禅・瞑想のすがた)をあらわしており、静的な仏である。
これに対して、浄土真宗の阿弥陀様はどちらかというと、立ち姿(立像)の阿弥陀様が多いようである。
立像(立ち姿)ということは、坐禅(瞑想)中のお姿ではなくして、
動的な阿弥陀様を表現している、といえよう。
立ち働いている(立像の)阿弥陀様は、
親鸞上人の本懐にちかいのかもしれない。

個人的なことだが、
旧知の女優さん、角替かずえさんが64歳の若さでなくなった。
おなじく俳優をなさっているご主人と、かずえさんのおふたかたが結婚する以前より、彼女のことは知っていた。お酒を呑んで、一緒に歓談したこともあった。なんとも、若すぎる死である、悼ましいことである。

死といういうものは、だれしもが「何時」かはいかなければならない世界だが……
ここにしるしてご冥福をお祈りいたします。
やすらかにお休みなさい

南無のかたち:三つの祈りのかたち

四国八十八ヶ所の遍路では、空海さんを慕い、南無大師遍照金剛(なむ・だいし・へんじょう・こんごう)と唱える。
南無(ナム)とは、帰依(きえ)することである。帰命(きみょう)ともいう。

南無には、三つのかたちがあることが知られている。

一つは、いま掲げた南無大師遍照金剛に見られる「僧」への帰依である。
真言宗で唱えられる。

帰依とは、「大辞泉」によると、「神仏や高僧を信じてその力にすがること」と。
あるいは、その用例に「三宝に帰依する」とある。
三宝(さんぼう)とは、仏、法、僧のことである。

したがってまず、南無大師遍照金剛は、「僧への帰依」である。

つぎに「仏への帰依」は、南無阿弥陀仏などがそうで、阿弥陀仏(あみだぶつ)への帰依である。南無阿弥陀仏を六字の名号(みょうごう)ともいう。阿弥陀仏を称(とな)えることを称名(しょうみょう)という。
念仏ともいうが、念とは、オモウことであるから、念仏とは仏を念ずる(すなわち、想う)。もとは、南無仏などが、その観想念仏である。
それより発達して口称(くしょう)の念仏となったものであろう。
この南無阿弥陀仏が、「仏への帰依」である。
浄土宗や浄土真宗でとなえられる。

三つの南無のうち、残るは、「法への帰依」である。
これは南無妙法蓮華経などが、そうである。いわゆる唱題(しょうだい)である。
法は、仏教を開かれたお釈迦さまの教えのことである。それが法(みおしえ)をしるしたお経典である。み法(みのり)への帰依、それが「法への帰依」である。
日蓮宗であげられる。

以上、三宝への帰依を、祈りのかたち、としてあげてみた

歩く宗教:遍路

若い時分、四国遍路をしてみたいと思ったことがある。
京都栂尾(トガノオ)の明恵(みょうえ)サンではないけれども、
インドへ行きたいともおもった。
いずれもいまだ果すことができていない。

歩く宗教の代表といえば、それは巡礼であろうが、
四国にかぎっては、それを巡礼とよばずに、
「遍路」とよんでいる。
遍路には二通りあって、一番から順路どおりにめぐる「順打ち」があり、
また、終着地点から逆にまわるものを「逆打ち」などという。

お遍路さんがかぶっている笠には「同行二人」と墨書してある。
同行(どうぎょう)人とは、お大師様こと弘法大師(こうぼうだいし)空海上人(くうかい・しょうにん)のことである。
弘法大師は、人生行路を伴(とも)に歩いて行こう、といざなってくださる。
だからこれは「順打ち」コースの遍路にはぴったりなキーワードである。

いっぽう「逆打ち」の旅(遍路)には、どんな意味がこめられているのだろうか。
こちらは、お大師さまが同行してくださる「順打ち」の遍路とはちがって、
むこうからやってこられるお大師様と「出会う」、そんな遍路旅である。
いずれにしろ、この四国をめぐる旅には、お大師さまの存在が欠かせない。
だから「南無大師遍照金剛」ととなえ慕(した)うのである。
遍照金剛(へんじょう・こんごう)とは、空海さんのことである。
これから季節は、秋にむかうが、遍路はやはり春のものだろう。
秋遍路では、なにかもの哀しいひびきがつきまとう。
禅僧でも四国遍路めぐりをされた方がいる。
「歩く宗教」の醍醐味(だいごみ)を熟知しておられるからこそであろう。

日本の禅24流

後鳥羽天皇の建久二年(一一九一)、栄西禅師(1流)がわが国に禅を伝来、後村上天皇の正平六年(一三五一、北朝の観応二)に東陵永璵禅師(24流)(元明州天童雲 岫の法嗣)がわが朝に渡来するまでの百六十年間にわたって伝えられた、禅の流伝について二十四流に分類したものである。これを「二十四流の禅」という。

「二十四流」といわれる日本の禅のうち、三流――つまり第二の道元、第十五の東明派の東明慧日、第二十四の東陵派の東陵永璵(慈済禅師)(24流)は、いずれも曹洞禅である。

永平精舎:越前「永平寺」の由来

永平精舎(えいへい・しょうじゃ)を越州(えっしゅう)に築いて居(こ)す(月坡禅師語録)

日本の禅宗といえば、臨済宗、黄檗宗、曹洞宗がある。臨済宗は、京都の妙心寺をはじめ南禅寺・天龍寺など、あるいは鎌倉の円覚寺や建仁寺など多数ある。
黄檗宗は、隠元隆琦を開祖とする、京都宇治の黄檗山万福寺でよく知られている。
日本の三禅宗の一つで、道元禅師の開創になる曹洞(そうとう)宗の永平寺は山号を吉祥山といい、福井県吉田郡永平寺町にある。また曹洞宗4世の瑩山紹瑾禅師の総持寺(鶴見)もある。

永平寺は、はじめ寛元二年に開堂して傘松峰大仏寺と称していたが、
のち寛元四年に現在の永平寺に改められた(「禅学大辞典」)。
「月坡禅師語録」によると、

 永平精舎を越州に築いて居す

とある。

精舎とは梵語(ぼんご)の毘訶羅(びから)の訳で、
精練なる仏法修行者の居る処(ところ)という義、すなわち寺院のことである。

『国訳禅宗叢書』第九巻「国訳月坡禅師語録」の脚注によると、おおよそ、このようにある。

仏教が初めて中国に渡来せる時の年、今、日域真の仏法流通は道元禅師よりなりとの意より、
名付くるに「永平」を以てせりと伝う、永平寺は越前吉田郡志比荘にあり

仏教が中国に伝わったのは、「後漢の明帝永平一〇年」のことで、


迦葉摩騰(かしょう・まとう)・竺法蘭(じくほうらん)が、
仏像や経典を白馬に乗せて洛陽(らくよう)に来るや、
帝は二僧を鴻臚寺(こうろじ)に居住せしめ(「禅学大辞典」)、

そうして中国におけるはじめての仏寺である「白馬寺」(はくばじ)を建てて、
かれらを訳経事業に従事させたという。

その中国に白馬寺ができたときの元号「永平」にちなみ、
道元は、もともと大仏寺と称していたものを改めて「永平寺」と称した、
その委細は、上述のごとくである。

文中の「日域」(にちいき)とは、日本の異名であるから、
この国における新たな仏教(禅)の流通(るずう:仏法がひろまり伝わること)は、
道元よりはじまるのだ(日域真の仏法流通は道元禅師よりなり)という、禅師自身のつよい自負と意志とがみてとれる。
そしてその気概が、永平寺という新寺名への改称となってあらわれでたといえよう

向正面:むこうじょうめん、とは

相撲をみていると、
  向正面:むこうじょうめん、
ということばを聞く。
向正面とは、行司さんがたっている側のことである。
つまり、その反対側が、正面、である。
正面は、北側のことであり、向正面は、南側のことである。
わかりにくいが、
行司さんの位置を中心に据えると、
右側は、実際は左側にあたり、「西」ということになる。
逆に、左側は、実際は右側にあたり、「東」ということになる。
有り体にいうと、君子は南面する、という思想がもとになった考えであるから、
まずは、自らが北の位置にあって、南に面していると想定するほうがよさそうである。
すると、われわれからみて、右に当るものは、左にあたり、
東にあるものは、西にあたろう。
京都市中の地理概念は、だいたい、これで結着がつく。
北山にむかって、右は右京のはずなのに、現実は左京区と呼ぶ。
左にある区域は、右京区といわれる。
あるいは、京都御所の、左近の桜、右近の橘、もこれですべて結着がつこう。
つまり、われわれからみて右に植えてあるもの(実際は左ということになるが)は「左近の桜」であり、同じように左手に植えてあるものは、(実際は右手ということになるから)「右近の橘」と呼ぶことになる。

一転語(いってんご)

南泉禅師は、両(ふた)つの堂の僧たちに、片手に仔猫(こねこ)をつまみあげ、もう片手には利刃(りとう)をひっさげて、「さぁ、お前たち、この仔猫を救えるような、なんか、ひと言をいってみろ」とせまっている。
 そのひと言を、禅の語録は「一転語」(いってんご)と表現している。
 この一転語とは、
  転語は迷(まよい)を転じて悟(さとり)を得る転身の語
とは、増永霊鳳氏もいっている(第九十六則「三転語」『碧巌録』一四七頁)ように、
学人(修行者)の心境に一大転換をもたらすような一句の謂(いい)である。
 はたして、そのような一語が、さきほどまで掴み合いをしていた杜撰(ずさん:でたらめ)な雲水僧たちの脳裏に、咄嗟(とっさ)にうかび出てくるものか、どうか。
『無門関』や『ヘキガン録』は、案のじょう、
  大衆(学人、修行者)は無語だった
つまり、かれらは、そのとき、ひと言も発することができなかった、とある。

東西両堂の僧たちのあらそい

東西両堂の僧たちのあらそい(東西の両堂、猫児を争う)を、『従容録』(しょうようろく)第九則の頌(じゅ)では、
 両堂の雲水、尽(ことごと)く紛拏(ふんど)す
とえがいている。
「紛拏」(あるいは紛挐)とは、そのうち、紛は、入り乱れるさまをいい、拏は、つかむ、の意であるから、これは単なる、言語の争論のことではない。このことばから、文字通り、掴み合い・とっ組みあいした、そのような様相がみてとれよう。
 騒がしいさ中に、その僧院(叢林)のあるじたる、南泉普願禅師は、とうどう出陣となって、大衆の前に姿を現されたのである。

難問中の難問に挑戦

『碧巌録』、『無門関』そして『従容録』中のいずれの語録中にも、師の南泉普願から、
「道(い)得(え)ば即ち〔猫児を〕斬(き)らず」(何か一言をいえ)と問われた大衆たちのはなしが出てくる。
が、かれらは弟子たちはいずれも、無語であった、とある。
師の南泉和尚に問いかけられた、その会下(グループ)の大衆たちは、
なんとも、適切な回答を示すことができなかったのである。
われわれとてもこれは同じであろう。
これは難問中の難問と認識すべき問題なのである。
考えてもみよ、
回答不可能な問いを与えられ、いかように答えることができようか。
あれこれと解決の緒(いとぐち)をさぐるけれども、
ただ、オロオロと、そのまわりわ、さまようばかりである。

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